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文学サロン「仁科芳雄~原爆開発と世界平和のあいだで」開かれる

2025年10月21日、日本文藝家協会において「仁科芳雄~原爆開発と世界平和のあいだで」と題したイベントが開かれました(主催 脱原発社会をめざす文学者の会、共催 日本文藝家協会)。講師のノンフィクション作家 上山明博さんのお話は原水爆禁止2025年世界大会科学者集会でも伺いましたが、本文学サロンでは仁科芳雄氏に焦点をあてたお話でした。

上山明博さん

上山明博さん

主なお話の内容

自己紹介

これまでサイエンスの面白さ、科学が開く明るい未来を紹介してきたが、福島原発の事故が起きた時に科学の社会的責任を感じた。そして思った。脱原発社会をめざす文学者の会に入会した。そして、仁科芳雄さんの評伝を6年かかって書いた。
仁科は量子力学の研究者で、湯川、朝永らを育てた。日本の原爆開発を太平洋戦中に委託されていた。戦中は原爆開発に関わり、戦後は核廃絶運動の先頭に立ち、この正反対の二つの原点はともに仁科である。

仁科さんはどんな人

岡山県出身。庄屋の子で四男だった。祖父は代官で、家は代官屋敷と呼ばれていた。父が早く亡くなり、長男が家長を継いだ。東芝に入ることが決まっていたが、家族会議で3人の兄たちが話し合い、許可を得て東京帝国大学工科大学院電気工学科に進み、首席卒業し、天皇陛下より銀の懐中時計を頂いた。
仁科は現代物理学の父と言われているが、物理学との出会いは理化学研究所(理研)から留学してからのこと。ニールス・ボーア研究所で量子力学の研究に関わる。そこで、日本から来た木村(化学分析)と共同研究をした。
当時、世界で流行っていた、元素ウランより重い原子“超ウラン物質”探しを命じられる。物理学者と化学分析学者のペアでこの研究に取り組むものが多かった。木村がこのときに開発した分析技術は第五福竜丸の分析に使われることになる。7年間の留学を終えて理研に戻った。

日本における原爆研究の始まり

1938年、ドイツのオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーらが超ウランの研究中に「核分裂」という現象を見つけた。ボーアを介して、核分裂の情報は世界に拡散された。多くの先端科学者は核分裂を使った兵器を想像することができる状況だったろう。しかし、日本は情報封鎖され、このような情報は届かなかった。日本で原爆を考えたのは誰か。
日刊工業新聞「原子力工業」(1955年7月号)に、「安田武雄(元陸軍航空研究所長)がN博士から原爆の開発研究を日本でも行える可能性があることと提案された」という記事がある。これが日本の原爆研究の始まりだと思う。
仁科の研究計画書にかかれている目的は「サイクロトロンを使って放射性元素(=ウラン235)を生成し、それを応用した研究をする(=原爆製造、原爆の燃料をつくる)」となっており(括弧内は説明のため筆者が追記)、あえてなのかどうかわからないが、「原爆」という言葉はどこにもない。
仁科が研究していた核分裂エネルギーの応用研究は、原爆ではなく原発を指しているのではないかという科学史家もいるが、当時は空襲がひどく、原発どころではなかったのではないだろうか。軍があえて「原爆」の文字を使わなかったのではないか。情報が漏れたときのために。
仁科は26インチサイクロトロンをアメリカのローレンスと手紙を交わしながら完成した。それから情報封鎖中に、60インチサイクロトロンを開発した。日本版のマンハッタン計画をめざした基礎研究をしていた。

広島・長崎

1945年8月、広島と長崎に原爆が投下される。仁科は名指しで、軍用機で現地調査に派遣される。広島を上空から見た後に現地に入り、夕方に内閣官房に原爆であると涙を流しながら電話で報告した。ピカッと光ったのでマグネシウムだろうという意見もあった。原爆だと認めない人もいた。電話なので泣いていたというのはこじつけだという人もいるが、胸がつまっている声であることは、わかっただろうと私は思っている。
仁科は2日間で詳細な報告書を作成し、大本営に電信と空輸で報告した。この報告が早かったことが、早期にポスダム宣言を認める要因になったと私は思う。この報告書は科学的に優れた淡々としたものだが、被爆地での思いについては記されていなかった。

核廃絶への転換

原爆投下から8か月後、仁科は雑誌「改造」に「原子力の管理」という原稿を書いている。そこで、広島、長崎で目にした光景は「真に生き地獄」で、「戦争をするものではない。どうしても止めなければならぬと思った」としている。
その後、仁科はGHQの許可を得ながら、記録映画を作成・監修した。しかし、完成後すぐにアメリカに差し押さえられ、アメリカ本国で保管された。仁科記念財団を継いだ朝永さんが一部を返してもらって、写真集(250枚)を出版した。非常に悲惨な写真が収録されている。

「原子力工業」を読み上げながら

「原子力工業」を読み上げながら

唯一の被爆国が原発大国に

解体されたサイクロトロンは東京湾に放擲(ほうてき、投下)された。平和研究のためのサイクロトロンを放擲されて中曽根康弘は怒った。これが、日本が原発大国になるスタートになった。当時はアイゼンハワーが平和利用を唱えていた。
仁科はGHQに、サイクトロンを核医学、品種改良に利用したいという綿密な研究計画書を提出したが認められず、サイクロトロンは放擲された。当時、仁科は弟子たちに物理学をやめて生物学の研究をするとまで言っている。

日本学術会議声明

1949年、日本学術会議は、副会長の仁科が中心になって「日本学術会議は、平和を熱愛する」で始まる被爆国の科学者の核管理の要請をたった2行の学術会議声明で発表した。学術会議設立に際し、GHQに根回しもして、必死の作文だったろうと思われる。
1950年4月には、憲法の戦争放棄を受けて声明を発表している。
仁科の言う原子力の平和利用とは、人類が戦争を地球上から消すことができたときに初めて原子力の平和利用ができるというもので、科学者は戦争を再び起こさない努力をすべきであり、これは科学者の義務であると言っている。
仁科は1951年に60歳の若さで癌によって亡くなった。サイクロトロンの実験、広島・長崎の調査、映画撮影で被爆したことが癌を誘発したのだろう。

第五福竜丸

1954年、第五福竜丸が被爆した。水爆か原爆かわからなかったが、世界に被爆の恐ろしさが伝わった。広島・長崎の悲惨さは、情報統制下で広島・長崎の人と一部の物理学者しか知らなかった。第五福竜丸のときはプレスコードが解除されていた。木村は分析して、これが水素爆弾であると特定した。仁科が一番よく原爆について知っていたのに、GHQのプレスコード下では何も発信できなかった。
1955年に原水禁第1回大会が広島で開かれ、2,600人が参加。3,200万人が署名、これは日本人の3人に1人にあたる。
1955年、ラッセル・アインシュタイン宣言があり、20年後(1975年)に湯川・朝永宣言「核抑止を超えて」が発表された。30年後(1985年)、湯川さんは「核抑止は幻想」と言っている。今は、核抑止論が世界に蔓延してしまった。核抑止は、核兵器は絶対悪だというラッセル・アインシュタイン宣言に背いていることになる。

むすび

仁科は自ら進んで原爆を開発し、戦後、核廃絶へ方向転換した。仁科の弟子の湯川・朝永も核廃絶を唱えた。今年、戦後80年になって、仁科の「核の平和利用と核兵器は共存しえない」という考えは継承されているだろうか。

講演後、会場ではワインも振舞われ、質疑応答と意見交換が行われました。
戦後80年経っても「もう戦争の反省はしなくていいという時はこない」という発言がありました。ジャーナリストの自戒を込めた言葉でした。
上山さんからは「日本が原爆開発をしたことをあまり言いたくない人もいるようだが、それでは仁科のように強く核廃絶は訴えられないのではないか」という発言があり、核廃絶の難しさが深く伝わってきました。