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原水爆禁止2025年世界大会科学者集会「学術の軍事化と核廃絶」

2025年8月3日、原水爆禁止2025年世界大会科学者集会「学術の軍事化と核廃絶」がオンラインで開かれました。この集会で「核廃絶~仁科芳雄博士のめざしたもの」と題してノンフィクション作家の上山明博さんが講演しました。そこで、第二次世界大戦後、原子爆弾の開発に関わった科学者らが、原子力が再び悲惨な戦争に利用されないためにはどうしたらいいか、真剣に話し合った「パグウォッシュ平和会議」のことを話されました。
私たち、くらしとバイオプラザ21では、遺伝子組換え技術が世に出始めたときに、この技術を慎重に扱おうと開かれた「アシロマ会議」は、このパグウォッシュから学んで開かれたものだと考えてきました。パグウォッシュがあったからこそ遺伝子組換え技術は今日まで事故もなく慎重な歩みを続け、科学と社会とのあるべき関係を追求してこられたと思います。本稿では、上原さん(「原爆を作ろうとした物理学者」がみたもの』(青土社、2025年)の著者)のお話を報告します。

「核廃絶~仁科芳雄博士のめざしたもの」
上山 明博 さん(ノンフィクション作家、日本科学史学会会員)

はじめに

仁科芳雄博士は日本の「物理学の父」といわれ、湯川秀樹、朝永振一郎をはじめとする多くの優秀な原子物理学者を育てた。原子爆弾の開発というと、国内外で科学者は戦争を進めたい政府の圧力によって望まないのに研究させられたと思っている人が多い。果たしてそうだったのだろうか。科学者は戦争に翻弄されただけなのか。原爆投下80年である今、振り返りたい。
日本の原子爆弾を開発する計画はニ(仁科のニ)号研究と呼ばれた。日本原爆の開発と核廃絶の原点は共に仁科にあると私は考えている。2025年6月7日に日経の書評に私の著書「仁科芳雄」を取り上げてもらった。書評のタイトル「戦争に翻弄された科学者」からは、不承不承、原爆研究に従った科学者というイメージを多くの人が持っている現状が現れていると思う。
国会図書館に通って調べたら、日刊工業新聞社の出している雑誌(1955年7月)の記事に、昭和15年陸軍航空技術研究所長は、岡山の同郷で東大の理学部の後輩である理研研究員 仁科博士から「原爆開発の準備がある」と初めて聞いた、とある。そのときに陸軍研究所長は心躍ったと書かれている。当時、原子力で航行する船は登場しており、多方面への原子力の利用が始まっていた。原子爆弾も含めて原子力の研究を続けられるという好奇心と期待が仁科にあったように思う。これが日本陸軍航空における原爆研究の「開始点」だったといえるだろう。日本の原爆開発関連資料の多くは処分されたが、一部の機密文書は国会図書館に収められており、申請すれば読むことができる。

ニ号計画

詳細できれいなサイクロトロンの設計図が現存している。これはアメリカのローレンスが特許をとったサイクロトロンによく似ている。仁科はローレンスに手紙を頻繁に書いて相談しているので、似ていて当然だろう。ローレンスは1936年に特許申請し、仁科は1937年、世界で2番目にサイクロトロンをつくった。
これが日本で初めての26インチのサイクロトロン「理研1号」であり(1937年)、1944年、仁科は世界最大の60インチのサイクロトロン「理研2号」をつくった。このサイクロトロンを使って、核変換の実験が行われ、仁科は日本の原子物理学研究のトップに立った。ドイツはそのころ核変換の実験で、核分裂を発見した。このときに一部の科学者は、核分裂は爆弾に使えることを想像していたことだろう。
日本には、核分裂の研究に関する情報が入らず、孤立状態だったようだ。そうして、日本は真珠湾攻撃へと進んでいく。60インチ大サイクロトンを使った実験を通して、仁科は独自に爆弾を認識して「ニ号計画」を提案したのだろう。

広島・長崎

1945年、広島、長崎に原爆が投下された。仁科は軍の要請を受けて、軍用機で広島・長崎にいき、被爆の惨状を目にすることになる。初めは本当に原爆が投下されたのかはわからなかった。調査した仁科は大本営に電話をし、「残念ながら原子爆弾にまちがいない」と涙ながらに伝えたという記録がある。
終戦を迎え、GHQは駒込の仁科研究室を閉鎖した。1945年12月、仁科が作った大サイクロトロンの解体が始まった。ライフ誌はこの解体作業を小特集にしている。そこには、ガスバーナーで鉄のかたまりを焼き切るところ、ほぼ原形のままのサイクロトロンが東京湾沖合に投棄されたときの写真などが掲載されている。
仁科は解体作業をする米兵に「サイクロトロンは原爆と関係がない。これは私の10年分の研究人生だ」といったそうだが、もちろん聞き入れられなかった。

被爆国から科学技術創造立国へ

中曽根康弘氏は自叙伝で、GHQがサイクロトロンを東京湾に投棄したことを知り、科学技術の基礎的な平和研究が中断されたことに怒り、日本は科学技術創造立国であるべきだと述べている。当時、中曽根氏は26歳の青年であったが、後に政治家になり、議員立法として原子力基本法を成立させた。サイクロトロン投棄は、戦後の日本の原子力研究を遅延させるために行われた。

爆心地に立った仁科

先に述べたように軍用機で被爆地に立った仁科はその悲惨な被害について政府に報告した。この報告が玉音放送を早める影響を与えたと思う。しかし、原爆開発に関わっていた仁科の被爆地での自責の思いを語った記録は残ない。
いたるところに目鼻もわからないほどの火傷をしたご遺体がある、地獄のような状況を目にした仁科は、原爆投下8か月後、「戦争はするものではない、戦争はとめなくてはならない」と言うようになる。これは、自分が提案し、主導した研究への科学者として自責の念からくるものだろう。このとき、核廃絶の思いが仁科に着床したと思う。

科学者の義務

原子力の応用例というと、一般人には原子爆弾が目につきやすい。核兵器がこの世からなくなり、原子力が文化発展と人類の進歩のみに役立つとき、真の原子力の時代がやってくる。戦争と核兵器はセットでとめなくてはならない、と仁科は考えた。
1953年、国際連合第8回総会では、米国アイゼンハウワー大統領が「原子力を平和のために(Atoms for Peace)」という演説を行った。国際原子力機関(現在のIAFA)設立、IAFAによる各国から供出された核物質を平和利用のために保管、貯蔵および防護、原子力の平和利用の推進が提案された。
この考え方は、仁科のいう「真の原子力の時代は核兵器を廃絶してからやってくる」という考え方に反するものだった。これが科学者の責任であると仁科は考えていた。
1949年10月6日、日本学術会議第4回総会において、「原子力に対する有効なる国際管理の確立要請」という声明を発表する。「日本学術会議は平和を熱愛する。原子爆弾の爆被害を目撃したわれわれ科学者は国際情勢の現状に鑑み、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する」。当時、仁科は副会長だった。
占領下にあった日本がGHQの検閲下で、被爆国である日本の学術会議が宣言するところに意味ある。仁科は師匠であるボーアと共に国際連合に働きかける活動も大きくなっていった。

日本国憲法と核廃絶

日本学術会議設立の3年前、憲法の草案が発表された。第9条に戦争放棄が述べられたことで、核廃絶に有効だと期待して仁科は喜んだ。世界のロールモデルとなんて核廃絶を日本が促すのだという。
1950年の日本学術会議声明では、「文化国家の建設者として、戦争を目的とする研究に絶対に従わない」といっている。
1951年、仁科は60歳で急逝。肝臓がんで白血球が低かった。サイクロトロンの実験をしていたこと、被爆地の調査の陣頭指揮をとったことの影響と考えられる。当時、爆心地に入った科学者にしか爆心地の被爆の怖さはわからなかっただろう。
1954年3月1日、ビキニ環礁で行われた水素爆弾実験に、付近に居合わせたマグロ漁船の第5福竜丸が巻き込まれ、放射線被ばくをした。この事件から被爆の恐ろしさが広く知られるようになり、1955年、ラッセル・アインシュタイン宣言がロンドンで発表された。
1957年、カナダのパグウォッシュ村で故湯川秀樹博士ら世界の著名な科学者らが創設して、第1回パグウォッシュ平和会議が開かれた。それ以後、世界の科学者が定期的に集まり、年次会議(世界大会)などを開いている。核実験停止や核拡散防止の必要性などを提言し、1995年にはノーベル平和賞を受賞した。被爆70年の2015年には長崎市でパグウォッシュ世界大会が開かれ、約200人が参加した。
1975年、仁科の意思をうけて朝永・湯川宣言「核兵器廃絶を訴える宣言」が発表され、1980年、第30回パグウォッシュ会議で、湯川(前立腺がんに罹患)は強く求められてメッセージ、「核廃絶をめざして」を発表した。パグウォッシュに初めから出席した科学者で生存しているのは、重いがんを患っていた湯川だけだった。
湯川は「核兵器は絶対悪で除去されなくてはならないという考えを非現実的であるとして退けるのは、核保有国の既得権益を無意識的にせよ、あるいは意識的によりかかったものであり、この上に立てられたいかなる世界の平和構想も、到底多くの核兵器非保有国に対して説得性をもちえないでありましょう」と述べ、核廃絶が実現しない理由はどこにあるのかを厳しく追及したものだった。湯川はこの翌年に亡くなった。

上山さんは最後に「歴史は伝える意思を持たないと消滅するものなので、私は消滅しないために証言する」といわれました。
太平洋戦争中、二号計画を進め、被爆地にいち早く入って調査し、世界に核廃絶を強く働きかけた仁科。それをうけついだ湯川・朝永宣言でも廃絶が訴えられました。原爆投下80周年の今年、核廃絶の旗を掲げる重要性が高まっています。
上山さんは、ウクライナやイランの核施設への攻撃や威嚇など核の関心が高まっている今こそ、仁科、湯川、朝永の意思をついでいかなければならないと強く訴えられました。