くらしとバイオプラザ21

ニュース

東洋大サイエンスカフェ「ダーウィンと牧野富太郎」

2023年10月17日、東洋大学サイエンスカフェが、東洋大学大学院「科学コミュニケーション演習」の一環として開かれました。
お話は日本サイエンスコミュニケーション協会 会長 渡辺政隆さんによる「ダーウィンと牧野富太郎」でした。ずば抜けた観察眼をもって生物を見つめたダーウィン、同じく植物を見つめた牧野富太郎ふたりには書物を介したつながりがあるという、夢のようなお話でした。本サイエンスカフェは東洋大学板倉キャンパス図書館から配信しました。

ポスター

ポスター

お話の主な内容

ダーウィン(1809-1882)の生涯

ダーウィンを一言で言うならば、カントリージェントルマン、ナチュラリスト。父親が医師で、母親と妻の実家はウエッジウッドと家庭が裕福だったので、ダーウィンは生涯、働いたことがなく、研究三昧、読書と音楽を好んだ。
20代の時にビーグル号で世界を回ったが、長男が生まれてから死ぬまでロンドンの近郊のダウン村で過ごした。彼の家「ダウンハウス」は今も博物館として残されている。
エマ夫人のピアノ演奏を愛した。ピアノの上にミミズの入った容器を置き、ピアノにミミズは反応するが、息子のファゴットには反応しないことから、ミミズは音でなく振動を感知すると論文に書いている。
ダウンハウスの周りにあるサンドウォークと呼んだ散歩道を周回しては、鋭い観察眼で自然を見つめた。ミミズの食べ物を調べて、ミミズは土を耕してくれている。蜂はどの花の蜜を吸いどんな生態なのか、野生のランの研究などをした。犬や鳩も飼っていた。

種の起源

1659年、ビーグル号航海から20年経って「種の起源」を発刊した。「共通祖先から枝分かれして生物は進化してきた」というのは、キリスト教の、すべては神が創造したという考え方に合わない。匿名の人が進化論を唱えて、たたかれたりもしていた。そこで自然淘汰説を大著としてまとめていたが、そのダイジェスト版として「種の起源」を書き上げた。
異説を唱えたストレスもあり体調を崩したダーウィンは、サウス・ハートフィールド・ハウス(妻の姉の家)で静養した。サウス・ハートフィールド・ハウスはアッシュダウン・フォレストの中にあった。ここはクマのプーさんの舞台で、作者が週末を過ごすセカンドハウスがあったことでも有名。

多様な研究

ダウンフォレストの周りにはヒースの草原が広がっていた。そこで食虫植物のモウセンゴケにたまたま出逢う。1875年「食虫植物」を出版。食虫植物は貧栄養の環境で栄養を補うために食虫性を進化させた。捕らえた虫を消化する液は、動物の消化液と似ている。そのほか、「ツル植物」の研究では、ツルがまきつく「植物の運動」などについて考察した。このようにダーウィンの研究はとても多岐にわたっている。

牧野富太郎(1862-1957)

牧野は「種の起源」出版3年後に生まれた。40万点の標本を採集し、命名した植物1500種といわれているが、NHK連続ドラマ「らんまん」の植物監修者が確認した所、5万5000点種類の植物を採集し1369種に命名したとのこと。標本は東京都立大に納められ、未整理の標本と牧野の採集日記の突き合せに10数年を要した。
日本の植物学は明治以後に始まったばかりで、ほとんど手つかずの状態だったので、牧野が多くを発見、命名できる状況でもあった。牧野は全国のアマチュア植物愛好家の育成にも貢献した。

ムジナモとの出会い

1890年、牧野は奇妙な葉をつけた水生植物をたまたま発見。東京大学の植物教室に持ち帰ったが、最初、誰もその正体がわからなかった。そこに現れた矢田部良吉教授が、コーネル大学留学中にたまたま入手していたと思われるダーウィンの「食虫植物」に見覚えのある図版があったと指摘し、世界的にも稀少なアルドロヴァンダ・ベンクローサであることが判明した。その本は、今も東京大学生物学科図書室の稀少書収蔵庫に保管されている。
牧野は和名「ムジナモ」と名付け、世界で初めて花を咲かせることに成功して図版にまとめて発表し、世界的な名声を得た。ムジナモは現在、絶滅危惧種として、ごく一部の場所で保護されている。
食虫植物の園芸品種として、虫を葉ではさんで消化するハエトリグサを思い浮かべる人が多いと思う。原産地は北アメリカ東部のごく一部の地域。このハエトリグサに関して、2015年におもしろい発見があった。ハエトリグサは、貴重なエネルギーを節約するために、20秒以内に2回の刺激があったときだけ葉を閉じること、葉の中で虫が暴れて3回目の刺激を受けると消化液が分泌されるというのだ。
たとえば、ウツボカズラという食虫植物は消化液のたまっている壺のような構造に虫が落ちると出られなくなって、やがて消化されてしまう。この消化液は、もともとは植物が病原性の真菌に対抗するために菌の細胞を溶かす液を持っており、貧栄養下での食虫性を進化させるにあたってそのしくみを転用したと考えられている。

むすび

ダーウィンが食虫植物の研究を始めたのはたまたまの出会いがきっかけだった。牧野のムジナモの発見もたまたまで、その学名がわかったのも、谷田部がたまたまダーウィンの本を持ち帰っていたからだった。この奇遇がおもしろい。
牧野は「植物の精」と言われ、植物のすべてを知りたいという一心から多様性の記載をした植物図鑑をつくり、多くの人と共有した。
ダーウィンは、なぜ生物は多様なのかの謎を解きたいという気持ちで「進化論」に思い至った。

ダーウィンと牧野は共に稀代のナチュラリストであることは間違いないが、アプローチに違いがある。牧野は多様性を愛でることに喜びを感じていたのに対し、ダーウィンはなぜ多様なのかにこだわり続けた。ふたりの生物の見つめる根底にある思いは少し異なっていたようだ。