くらしとバイオプラザ21ロゴ
  • くらしとバイオニュース
  • バイオカフェ「建築の安全・安心とリスクコミュニケーション」

    2018年2月9日、東京テクニカルカレッジでバイオカフェを開きました。お話は東京テクニカルカレッジ運営本部長兼校長の高瀬恵悟さんによる「建築の安全・安心とリスクコミュニケーション」でした。建築学がご専門の高瀬さんから、建築の安全・安心とリスクコミュニケーションについてお話しをお伺いし、バイオテクノロジーとの共通点を探りながら議論しました。
    初めに、クラリネットの岩澤葵さんとフルートの杉浦夏美さんによる音楽演奏がありました。


    写真
    高瀬恵悟さん
    写真
    今日の演奏者、岩澤さんと杉浦さん

    主なお話

    本日は、建築と地震の話を中心に、リスクコミュニケーションの難しさという視点で話し、専門家と市民とが語り合う場にしたい。専門の防犯からリスクの話を話し、地震でなぜ建物が壊れるのか、地震はなくすことはできないが、被害は減らすことができる。そのためには、専門家と市民との間でコンセンサスが必要。これが今日の話のメイン。

    1. リスクで考える防犯

    月島のもんじゃストリートに面したタワーマンションがある。都心に近い高層マンションだが、1階にコミュニティエリアがあり、一般の人も通行できるため、セキュリティの問題があるが、そこを工夫するのがCPTED(セプテッド、防犯環境設計)の考え方。元々、アメリカを中心として、犯罪者は社会的な病気なのだから、社会を治療して世の中をよくするという考え方「医療モデル」や、犯罪を犯す人は悪いと思ってやっているから罰するべしとする「正義モデル」などがあったが、犯罪は一向に減らなかった。そこで、犯罪は撲滅することはできないが抑圧することはできる。犯罪の発生は人や社会も要因だが、環境的要素も大きい。たとえば、門や塀など干渉物の設置や監視カメラの設置、接近の制御、危ない人が来たら通報する、声かけ運動などで抑圧することができるだろうという考え方に落ち着いた。現在では、CPTEDだけではなく、司法制度、警察力、地域の中での問題解決、環境整備なども含めた防犯が流れとなっている。警視庁は、新宿エリアのひったくり情報を公開し、被害に合わないために気を付けるべき点についての情報を発信。犯人に犯罪テクニックを教えることになるので、犯罪の統計データは公開していなかったが、最近は、「自分の身は自分で守る」ために公開している。

    2.リスクコミュニケーション

    市民と専門家の間では、コミュニケーションが取りにくいため、アウトリーチ活動(手を延ばす活動)が非常に重要だが、一方で、受け手側のリテラシーも必要である。

    洗剤の安全性に関する議論
    1960年代に、日本では洗剤の安全性が社会問題になった。結局、80年代に解決したが、「安全か有害かを問題にする場合に最も問題なのは、その前提、特に現実の場における定量的な条件をはっきりさせておくこと」だと、記録にある。要は、洗剤の量を無視して危険か、危険でないに話が終始したため、おかしくなった。砂糖や塩も量を間違えれば危険だというのは確かにその通りだが、伝え方によっては反発を招く。専門家は、使った量=暴露量によることを知っているが、一般の方は、化学物質は「安全なもの」と「不安全なもの(有害物質)」にはっきり2分されると思っている。日本の場合、リスクを危険と考えるが、リスクとは可能性の話なので、大きな穴=ハザードに近寄らなければリスクはない。安全とは、リスクがないことと誤解している方がいる。日本の文化の難しさもあるが、マスコミにもよくないところがあるのではないか。

    ヒューリスティック
    日本人に限らず、人間は未知のものを恐れる。これをヒューリスティクというが、最近では、パソコンのウィルスの検知に、過去の類似のパターン・経験から推測するヒューリスティクの技術が使われている。問題は、必ずしも正しい答えを出す訳ではないこと。たとえば、農薬を使った野菜は有機栽培の野菜より不健康的、遺伝子組換え食品はなんとなく怖い、中国製は総じて品質が悪いなど。正解か否かに関わらず、根拠がある正確な意思決定には検証が重要。ロジカルに考え、直観に頼らないことが必要。限られた情報の下でヒューリスティックに頼った情報が蓄積されると大変なことになる。たとえば、羽田空港の警報の事例では、警報が鳴っても(結局は誤報だったが)、皆、世の中のあまりにも多くの誤報に慣れているため誰もあわてない。京浜急行のホームで火災とのアナウンスが流れても、そちらに人が流れていく。人は、情報番組で震災や津波の映像を見過ぎて怖がらなくなっている。これはよくない。2003年の韓国の地下鉄放火事件では、多くの方が亡くなったが、煙が出ても誰も逃げなかった、なぜならば、隣の人が座ったままだから…。その他、集団ヒステリー、凍りつき症候群など。ヒューリスティックに頼りすぎて日常を送っていると、いざという時に、正しい判断ができなくなる。そのために、リスクの発信者は、正確さ、分かり易さを心がけ、ごまかさない、曖昧にしないことが必要。わかりにくいと受け手側がガードを上げ、ヒューリスティックな判断になってしまう。受けて側は、先入観をもたず、統計的なものの見方を心がけ、数値、単位、指標、客観性、用語の正確さに気を付け、分かったつもりにならない。従って、わからなかったら聞くべき。

    3.建築と地震リスク

    建物はどのように壊れるか
    建築のライフサイクルは、企画⇒設計⇒施工⇒維持・管理で、この間に、壊れるチャンスはいくらでもある。設計ミス、性能偽装、施行ミス、品質偽装、強度不足などにもよるが、それらのどこにも問題がなくても建物が壊れることがある。
    建物が地震で揺れる実験映像(兵庫県Eーディフェンス)やJR高取駅の実際の映像を見ると、建物は揺れれば色々なところが緩む、崩れ始めたら止まらないことなどがわかる。建物は、建築基準法を守っていても壊れる。一般の人は建築基準法を守っていれば安全と考えているがそうではない。絶対安全は目指していない。それは、憲法の「制限規範性」という考え方に関係する。建築基準法は、国民の財産に関する権利を制限する法律なので、望むべき水準ではなく最低限の水準。平成12年にできた「住宅の品質確保に関する法律」には、中規模地震では復旧できる(住み続けることができる)が、大規模地震(震度6強~7強)では、建物は壊れるが中にいる人は死なない(壊れても崩れない)とされている。つまり、震度5強程度の地震までは、変形しても元に戻るように設計し、それを超える地震では、中にいる人を守るため、柱が1,2本折れたとしても、建物全体としては崩れないように設計する。実際には非常に複雑で、今の説明は正確ではない。一般の人に理解してもらうために簡略化したが、これで正しく伝わっているのかも論点のひとつ。

    震度とマグニチュード
    日本は10階級の震度があり、最大は震度7。同じ震度7でも場所によって違う。地震のエネルギーはマグニチュード。日本と世界では違う。巨大地震では、気象庁マグニチュードは正確な値がでないことが分かってきた。震度7を超える地震は、建築基準法では想定しておらず、これを超える地震で建物が壊れてもやむを得ない。昔から、地震の波と建物の周波数の共振により建物が倒壊するといわれているが、建物は建った時のままではなく、今まで受けた地震の影響で挙動が複雑になり、どの周期に合わせればよいとはいえなくなる。このように、研究が進むほど複雑になり、一般の方の理解の範囲を超えてしまう。

    許容可能なリスク
    そこで、問題なってくるのは、どこで線引きをするか。JIS規格「安全側面―規格への導入指針」に「許容可能なリスク」とあり、これは「現在の社会の価値観に基づいて、与えられた状況下で受け入れられるリスクのレベル」のこと。たとえば、子ども用はさみ(経産省リスクアセスメントハンドブック)には、刃による手指の障害、目の障害がハザードとしてあり、それを防ぐため、刃の先端を丸くする、刃にケースをつける、通常の操作に影響なく指が挟まりそうになった際のみ人感センサーにより刃の動きを停止させる、と3つの案がある。どこまで我々はリスクについて管理しなければならないか。目を突かないためには先を丸くし、ケース付き製品もありうる。しかし、センサーまでは今の社会レベルではいらないだろう。こういう考え方に基づいて、車は走っているし、電車のホームに柵が着いていない駅もある。暴動を起こさないのは、納得しているから。
    他にも、化審法では、ハザードベースからリスクベースでの管理に法改正され、使用頻度や環境排出量も加味した規制になったり、放射性廃棄物のクリアランスレベルが自然界レベル以下の場合は規制免除、など、専門家は納得しても一般は納得できない、といった部分もある。
    デミニミス・リスク=法は些事に構わず、という考え方がある。たとえば、旅館やマージャン荘で、お客様の為にタバコを買い置きしておくと煙草専売法違反になると最高裁で争われたが、可罰的違法性には当たらないとされた。
    リスクには、拒否、受容、その中間がある。中間は、社会やその時々、ものによって決まってくる。10-3から10-6の間で押さえるのがよい、というのが、国際的に使われている。つまり、千人に一人から百万人に一人の範囲で、その社会の中で規制をかけ、リスクを管理するのが妥当とされている。どれだけ安全なら、十分安全かということだが、この合意形成に国民は関わっていない。たとえば、建築基準法では、震度5までは、建物は壊れてはいけない、ひびが入ってもいけないが、震度7を超える地震の場合は、崩壊を許容する。新規・大規模な震災のたびに建築基準法は改正されてきたが、1981年以降は改正されていない。阪神淡路大震災でも、東日本でも改正されていない。つまり、消極的、間接的ではあるが、1981年時点の耐震安全レベルで社会的許容がされたと解釈できる。非常に乱暴な議論と思われるかもしれないが、他の化学物質や食品に関する法律を総合して考えると、社会のリスクに対する合意形成とは、そういうことだと言えると思う。

    最後に、リスクマネジメントは、性悪説に立たないとだめだと思う。明るい話題として、シティコープ・ビルの話。見ず知らずの大学生の論文投稿にすぐさま反応して、風による倒壊の危険があるという設計ミスを見つけ、施主に伝えて補強工事を行った。これに対比されるのは、チャレンジャー号の事故で、O-リングの硬化が分かっていたのに無視して飛ばした。
    リスクマネジメントは事例が大切。しかし、大事故を待っていても大事故は防げない。ハインリッヒの法則(1件の重大事故の裏には29件の中規模事故、300件のニアミス)のためにも、報告、通報がセンサーになる。
    だれにでも、ミスはある。完ぺきな人間も完ぺきな企業もない。情報は都合のよいように操作される。専門家もそうでない人も不正をする。不正の機会をつくらない。複数の情報を得て、最後は自分で判断するしかないと思う。

    写真
    会場1
    写真
    会場2

    話し合い

    • は参加者、 → はスピーカーの発言

    • 建物が日々変化すると思っていなかったが、自分の専門の生物も変わっていくことは実感している。やはり、つながっていると思った。そういう認識を持つことが出発点、できるだけ多くの人に知ってもらうことが必要だと思うが、学生さんは、どのようなことを感じているのか?
      → リスクコミュニケーションの話は大人に対してしかしてはいけないと思っている。学生に対しては、ここまでの内容の話はしない。ベーシックな内容のみ。センセーショナルな内容しか記憶に残らなくなってしまうから。リスク教育のこれからの課題。
    • 日本人が大人になっていないから、リスクを理解できないのではないか
      → 私も同意見。フェイクニュースなども、行き過ぎるとだめ。最後の最後、これだけは信じられるものが必要。何を信用するかというと、スマホで検索順位が高いものを信用するという風潮が怖い。どこか独立・中立な信用できる機関がきちんと管理する仕組みが必要。
    • 神戸の地震の時に、建築基準法に従った建物は比較的大丈夫だったので、そのデータを出そうとしたら、対応していなかったところが責められるという理由で、発信を止められたと聞いた。
      → 情報の出し方は難しい、出し方をコントロールすることが必要だが、そうすると、隠していると捉えられることがある。開示する情報は限定される。受け手側の捉え方も様々。センセーショナルな出し方は受けるかもしれないが、避けるべき。出すなら全部出すべきだが、要約し、コンパクトに正確に出すやり方を今後、研究者も考えていかなければならないと思う。
    © 2002 Life & Bio plaza 21