バイオカフェレポート「武士の愛した桜草」
2016年4月15日 茅場町サン茶房でバイオカフェを開きました。お話は筑波大学生命環境系教授 大澤良さんによる「武士が愛した桜草~科学の目で見た園芸文化」でした。日本人に愛されている桜草とその園芸種の多様性について、歴史と科学の両面から語って頂きました。
はじめに、水野美香さんのクラリネット、内山知子さんのバイオリンによる桜草にちなんだ春の歌のメドレーなどが演奏されました。

大澤良さんのお話

水野美香さん、内山知子さんの演奏
主なお話の内容
桜草と私の出会い
1978年農工大の学生の時に桜草との出会いはあったが、筑波大学で鷲谷いずみ先生に誘われ、朝3時に家を出て埼玉の桜草の調査をした。農林水産省に入り、ソバとオオムギの研究をした。筑波大学にもどり、再び鷲谷先生と保全生物学の立場から絶滅危惧種の桜草の研究を再開した。当時は全国的に絶滅危惧種であったが、今では各地での保全活動が実って準絶滅種になっている。
研究を始めて10数年たったころ、形や色の種類が豊かな園芸種が多いことを知った。園芸家と保全生物学の人は対立しやすいが、両方を取り持てたらいいという考えもあり、桜草の園芸種に注目するようになった。
はじめに
桜草は多年性。江戸時代にすでに300以上の品種あったことが分かっている。桜草はマルハナバチが花粉を媒介し、種ができて、発芽する。また根分けした株はクローンで増える。クローンで増えるものは遺伝的に同一であり、「ラメット」と呼ばれ、遺伝的に異なる群れは「ジェネット」と呼ばれる。江戸時代の品種は根わけで増やされてきたので遺伝的に同じだから今見ている品種もラメットと言える。
桜草の生息地は、南は阿蘇、山陰と山陽に分布し、高山・中部地方から太平洋側にそって分布しており、日高が北限になる。各地で水路沿い、水田わき、海辺など、平地で自生している。
文化財としての桜草園芸種
荒川流域に野生種が残っている。浦和・田島が原の野生集団は、昭和27年に天然記念物に指定されたが、昆虫が減り、有性生殖が不調になれば遺伝的な多様性は低下してしまうとと考えられている。荒川区・尾久の原では、江戸時代にすでに乱獲による衰退が始まっていた。全国で、野生種の衰退・絶滅は進んでいるが、絶滅を危惧する人たちの努力が実り、絶滅危惧Ⅱ類から2007年には準絶滅危惧種に再指定された。一般に、野生由来の個体は天然記念物になるが、園芸品種などは対象外である。美意識のもとにつくられた園芸品種は民族文化財といえると私は思っている。記録にそって5つの時期に分けて桜草の歴史をたどる。
第1期:室町中期から末期 ~野生種栽培の初期
1478年最古の文献「大乗院自社雑事記」に庭前草花の2月に「桜草」と書かれている。
第2期 室町末期から江戸前期 ~栽培者が公家から上層町衆に拡大
茶の湯が盛んになり茶花として用いられる。栽培されていたのは野生種。
俵屋宗達、尾形光琳の屏風に桜草が描かれている
第3期 江戸中期 ~武士層が品種改良を始める
群落の変異種を見つけて楽しんだり、自生種の栽培化が始まる。
最古の園芸種「南京小桜」ができる。
第4期 江戸末期から昭和前期 ~品種改良がさらに進む
爆発的に園芸種が増え400種に届く。品種のリストがいくつもできる。
江戸・染井の植木屋 伊藤重兵衛が「桜草名鑑」をつくった
桜草売りの浮世絵がのこっている。1鉢4文の庶民の文化であることがわかる。
群落を見るだけでなく、小屋組花壇(棚を作り「櫻草作傳法」に従って鉢を並べる)を作ったり、重箱に寒天をいれて固め桜草を刺して楽しむなどの遊びがあった。、
第5期 明治・大正 ~市民への普及
桜草を愛好する団体が発足。
八重品種もでき、花の形態の多様さが愛好者を増やしていく。
科学の目でみた園芸文化
園芸種はどこの野生集団からうまれたのだろうか。桜草の核DNAと、葉緑体DNA(母系をたどることができる)を調べるために、6-7年かけて全国の桜草を集めた。
全国の77集団を調べたところ、葉緑体DNAは30種類あった。地域集団ごとに特異的に分布していた。大きく3つの葉緑体DNAタイプに分けることができた。
クレード1 東日本、西日本、九州
クレード2 山陰 北海道
クレード3 東日本
核DNA(マイクロサテライト)を全国32の集団で調べた。地理的な位置と対応した遺伝的な関係が見られ、北海道グループ、東北グループ、中部・関東グループ、西日本グループの4つの遺伝的グループが認められた。
園芸品種は127種類調べたが、核と葉緑体のDNAの分析から桜草品種の殆どは荒川流域の野生個体に由来することが分かった。また園芸品種のDNAの多様性は江戸時代に有って、現在では失われている遺伝的多様性を今に伝えていることが明らかになった。

会場風景1

会場風景2
桜草の変化の科学的分析
多様な園芸種の花の色、花弁の形、花の咲き方、花弁の模様、花のつき方について科学的評価を行った。
〇花色(紅色、桃色、紫色、とき色、薄色、白色)
アントシアニン2種、フラボノール2種、有機酸1種類の5つの色素とその量で花の色が決まる。色がシンプルな野生種に比べて園芸種が多様になったのは、色素成分が変化しているため。
〇花弁の形(桜弁、丸弁、梅弁、波打ち弁、獅子弁、かがり弁)
園芸種では、花弁の切れ込みが発達し、花が巨大化している。
〇花容(花の咲き方)(平咲き、抱え咲き、つかみ咲き、玉咲き他)
〇模様(花弁の花の色表現)(無地、目白、目流れ、底白、内白、染出し他)
〇花のつき方(受け咲き、横向き咲き、うつむき咲き、垂れ咲き)
江戸時代中期に野生種に比べて立体感のある園芸種が生まれ、後期には武士の間でブームが起こり、花が大型化した。明治以降は穏やかに形が多様化している。
花弁の大きさと花冠の丸さでプロットすると野生種 → 江戸中期 → 江戸後期以降と品種の形のが要さが増していることが示された。
桜草は地味な植物だけど、種類が豊かで庶民の文化にふさわしいよい植物だと思う。
「我が国は草も桜を咲きにけり」 一茶
話し合い
- 荒川流域の自生地から変異種を選ぶときに、江戸に目利きがいたのか?桜草の珍品探しから園芸化は始まり、それが庶民にひろがった。地方には桜草を献上した記録はない。江戸だけでハナショウブや桜草は価値をもっていた。
- 世界中で品種改良しているバラに比べると桜草は地味な花だと思う → 桜草は欧州人にはうけないだろう。ツバキやアジサイは海外で愛され大きな品種になって帰ってきた。欧州人は色彩豊かないとだめ。江戸時代の園芸植物で海外にでたのはボタンだけで、アサガオもオモトもだめだった。
- 関西に自生桜草はないのか → 関西に自生地は無い。桜草の自生地は火山活動の後など各乱後に生じるからかもしれない。
- 園芸品種の始まりは18世紀と考えていいのか → 1800年代 伊藤重兵衛が貢献した。江戸園芸は、享保年間の文化が成熟した時代、自由があって庶民が楽しんだ時代に広まった。 アサガオも同じころに広まった。
- アサガオはどうやって増やすのか → 種子。アサガオは江戸時代に何十両でとりひきされた。変わりアサガオはトランスポゾンという移動する遺伝子の働きだろうと分かってきた。
- 江戸時代の桜草の移動は → 日本中に移動している。人が運んだと思う。
- 葉の変化はないのか → 葉に変異はあまりないし、サクラソウの園芸家は、葉の変化には興味がないようだ。