岡谷蚕糸博物館バス見学会開催される
2015年10月24日、バス見学会が開催されました。今年は諏訪湖に面した長野県岡谷市にある岡谷蚕糸博物館―シルクファクトおかやーに伺い、日本の蚕糸業の歴史と最新の研究成果を活かした“カイコ産業”について学びました。
移動のバスの中では、農業生物資源研究所の志村幸子さんがカイコのお話をしてくださり、博物館では高林千幸館長がお話と館内の案内をしてくださいました。
岡谷市はかつて日本の蚕糸業の中心となった町です。明治時代、現在の岡谷市内で明治6年、片倉市助が座繰りによる製糸を始め、それが発展して日本の一大製糸企業・片倉組(現・片倉工業株式会社)となりました。岡谷市は、日本の製糸業発祥の地であり、世界遺産に登録された富岡製糸場と同様、多くの工女さんたちが生糸を繰り、日本の経済を支えていた地でもあります。そういった歴史を今に伝え、今後の産業に役立てるため、岡谷蚕糸博物館が開館しました。
2014年8月、4年半前までは国の研究機関であった農業生物資源研究所生活資材開発ユニットの跡地に移転、新規オープンしました。現在の岡谷蚕糸博物館は、旧研究所の建物や製糸機械などを活かすのみならず、地元にある宮坂製糸所を博物館内に移転、職人たちが手で繭から糸を繰る作業を間近で見ることができる“動態展示”と呼ばれる展示手法を試みています。これは研究所の研究者でもあった高林館長の、博物館に物が置いてあるだけでは面白くない、いつ来ても動いている様子を見て、日本の技術のすばらしさを感じてもらいたい、という発想によるものです。
岡谷蚕糸博物館の概観
動態展示 宮坂製糸の職人のみなさん
バス移動は往復で7時間ほどあったのですが、志村さんが昆虫としてのカイコ、家畜としてのカイコ、最新のカイコ研究のことなどたくさんのお話してくださいました。そのおかげで楽しい時間を過ごすことができました。
帰りのバスの中では、お話を聞くだけでなく、志村さんが準備してくださった研究所の成果を活かした様々なシルク製品のサンプルを手にとって見ることもできて、飽きることなく茅場町の事務所まで戻ってくることができました。
バスの中でお話する志村幸子さん(右)
自己紹介ではネムリユスリカのぬいぐるみが登場
志村さんのお話
私は現在、ネムリユスリカという、幼虫の状態で乾燥しても死なない虫の研究をしている。ネムリユスリカはアフリカ出身のユスリカの仲間で、岩盤の水溜りの中に卵を産み、幼虫となって羽化する。生物は一度乾燥してしまうとそのまま死んでしまうが、ネムリユスリカの幼虫は水で戻すと生き返る。これは、生息場所の岩盤の上の水溜りが乾季に乾燥し、雨季に雨が降ると水溜りができるような環境に対応している。乾燥した幼虫は高温、低温、放射線などに対する強い耐性を持っており、宇宙実験ではスペースシャトルの外に3年近く置いても地上で生き返ったことが報告されている。私はネムリユスリカの幼虫がどうして乾燥状態で強く、水で戻って生き返ることができるのか、その仕組みについて研究している。その前はカイコの飼育技術についての研究をしていた。
カイコはクワコというガが家畜されたもので、およそ5000年前に中国から伝来したといわれている。カイコの研究、と一口に言ってもカイコの生態、生理学、病気、飼育方法、品種改良と様々で、そのほかにも製糸方法や絹繊維の利用、カイコのエサであるクワの研究にも派生し、かつてはとても多くの研究者が関係していた。また、メンデル遺伝が動物にも当てはまることがはじめて確認された研究にはカイコが使われた。さらにその成果を応用して一代交配種が開発された。これにより生糸品質や収率の良いカイコ品種が作出され、大正時代になって全国へ普及した。一代交配種は異な品種のカイコを交配するため、もとの品種のカイコをそれぞれ雄と雌に分けて交配しなければならない。そのために飼育の段階でオスとメスを幼虫や蛹の体の作りの違いで判別するなどしているが、何万頭と飼育し、1頭1頭見分けるのは大変なので、オスとメスで繭の色が違う「限性黄繭」などの品種が開発された。
また、昆虫の特徴として脱皮と変態がある。カイコは完全変態する昆虫。これにはホルモンが深く関わっていて、カイコをモデルとした昆虫ホルモンの研究も進んでいる。
繭と養蚕の話
我々が繭を製品として利用するためには、カイコの卵を製造する蚕種業、カイコを育て繭をつくる養蚕業、繭から糸をとる製糸業からなっている。カイコの飼育についても分業になっており、卵から2齢幼虫ぐらいまでは稚蚕共同飼育施設で飼育され、その後、3齢の幼虫が繭になるところまで養蚕農家が飼育する。繭は製糸工場に出荷される。カイコの卵は蚕種製造業者が成虫を交配させて卵を産ませ、管理している。
養蚕は古代から栄光盛衰の波があった。日本の蚕糸業は、明治・大正・昭和初期にかけて急速に発展し、世界一の蚕糸王国を築いた。そして、昭和5年をピークに減少し、現在に至っている。そこで、高付加価値の繭を生産することで養蚕業を振興しようと、遺伝子組換え技術を利用した研究を進めている。
カイコは、野外では自力で生きていけないこと、高い物質生産能力をもつことなどの性質を利用して、医薬品等物質生産や高機能絹糸を生産するカイコをつくるという試みである。これには養蚕農家も期待している。現在、農業生物資源研究所と群馬県の施設で、養蚕農家の蚕室を模した場所・方法で遺伝子組換えカイコを飼育し、生物多様性に悪影響を及ぼさないかどうかデータを取る試験飼育を行っている。将来、養蚕農家が遺伝子組換えカイコの飼育ができるようになることを目指している。
シルクの話
繭糸の原料はカイコのおなかの中の絹糸腺という組織で作られる。そして、桑の葉を食べる口とは別にある吐糸口から吐き出される。では、絹、シルクは糸としてだけ使われているのだろうか。
シルクはタンパク質が豊富である。同様にタンパク質が豊富な牛乳は通常は液体であるが、粉末、固形、膜、繊維などに形を変えて使用している。それと同じで、シルクも糸以外に粉末、水溶液、スポンジ、チューブ、ゲル、フィルム等々に形を変えることができる。例えば、シルクのゲルは、シルクのゲルは塩化カルシウム溶液などで溶かし、その後塩化カルシウムを除去して液状シルクとすることで作ることができる。糸から形を変えたシルクは主に医療用基材として利用できるように開発を進めている。また絹糸でチューブ状に編んで人工血管の開発も進められている。
高林館長のお話
岡谷蚕糸博物館 シルクファクトは2014年8月にリニューアルオープンし、毎日数百人の来場者がある。この地は諏訪湖のほとりで、富士山と八ヶ岳がみえる風光明媚な場所。ここから蚕糸業が日本全体に広がった。桑がたくさん植えられて養蚕が行われ、水が豊かで製糸にも向いていた。
高林館長のお話
講義の風景
衝撃の三枚の写真
私の人生を変えた3枚の写真を紹介する。
1枚目は明治後期の天竜川沿いの製糸工場群の写真。大正から昭和初期には岡谷には200以上の製糸工場があり、町全体には約1000本の煙突が立ち並んでいたと言われている。このころ富岡で400人ほどの工女さんたちが糸繰りに関わっていたが、岡谷では昭和5年には34500人もの工女さんがおり、冨岡の約100倍の規模を誇っていた。
2枚目は工場の庭いっぱいの工女さんたちの写真。ひとつの工場には工場の規模によって異なるが、200人、300人、500人、1000人の工女さんがいて、糸繰りを行っていた。当時の岡谷の人口の半分弱が13-23歳(20歳がピーク)の工女さんたちだった。「農村が近代に入って工場として大をなしたという事例は、日本の近代都市成立史として珍しい」と八木明夫氏(東北大学)は岡谷のことをこう表現している。
3枚目は絹無音歯車の写真。私は昭和48年に農林省に入省、岡谷市にあった蚕糸試験場岡谷製糸試験所で働くようになった。そのころ、岡谷蚕糸博物館で絹無音歯車を見た。通常、歯車は金属製だが、二つの歯車の当たる部分に絹を用いることで機械音が静かになる。博物館をリニューアルするときにはぜひ展示したいと思っていた。これは片倉製糸紡績株式会社工業の小松清(岡谷出身)さんが製作したもの。絹は布だけでなく、歯車もできるというアイディアに感動し、研究開発を行うための発想の原点を教えて頂いた。
モノづくりを見た諏訪人の英知叡智と努力
1.諏訪式繰糸機
1859年、横浜が開港した。1860年に横浜から輸出された金額の66%が生糸だった。その後、昭和9年までの75年間、生糸の輸出高は第一位で、蚕糸業は外貨獲得産業の代表だった。当時の日本の絹糸の質はイタリアやフランスより低かったが、欧州でカイコの病気が蔓延、ほぼ全滅してしまったので日本製シルクは作れば売れた。しかし、質の悪いものもあったため、海外における日本製シルクの信用を落としてしまった。そこで質の良い生糸を作ろうと、フランス式とイタリア式の繰糸機が日本に輸入され、両者の利点を融合させた「諏訪式繰糸機」が誕生し、全国に広がった。
2.諏訪人による技術革新
1つ目は一代交配種の利用。外山亀太郎が、1900年ごろに動物でもメンデル遺伝が成立することを証明し、一代交配種(F1)が優れた性質のカイコをつくることを発見した。片倉工業の今井五介が外山の実験結果を取り入れ、カイコの一代交配種の利用を始めた。これにより質の良い繭をつくるカイコが全国に広がった。
2つめは御法川(みのりかわ)式繰糸機の開発。御法川と今井は、糸を繰る速度をカイコが糸を吐く速度に合わせることで効率的に繭から糸を引き出すことに成功した。この考え方はアメリカで絶賛された。
3つめは自動繰糸機の普及。糸繰りするときは、数個の繭からの糸を撚って生糸にするので、途中で新しい繭糸を足してやらないといけなくなる。糸が細くなったことを感知して、次の繭を加える仕組みを作るための「繊度感知器」が蚕糸試験場の大木定雄さんによって開発され、特許取得。当時のたま自動車(その後プリンス→現日産自動車)がこの機械を製造した。さらに、繭には毛羽(けば)があり、糸繰りには邪魔になるので取るのだが、この毛羽を集めると絹綿になる。それを型に入れて押し固めて絹擬革に利用するなど、無駄なく利用されていた。
シルクは戦前から、繊維以外の形でも利用されている。シルクは液体、粉末、固形、板状などに形を変えることができる。現在は、人工血管、光る織物などもある。光る織物は遺伝子組換えカイコが吐く糸を使っている。生糸絹糸を作る時には繭を煮て糸をほぐすが、この煮繭を60度以上に温度を上げてしまうと光が失われるので、取り扱いが難しい。光る生糸の繰糸は宮坂製糸所しかできない。宮坂製糸所の作業はこの博物館の中で行われており、館内見学する際に動態展示をぜひ見てほしい。他には、絹製のテント、ラケットのガット、かばん、ベルト等様々なものがある。
岡谷への想い
岡谷蚕糸博物館を歴史に学び、未来を考え、想像する博物館にしたいと思っている。博物館は資料収集、保管が中心だが、カイコ学習というカイコに関することを総合的に体験したり、理解したりできるようにしたい。カイコ学習を諏訪地方の学校で行うことを目指している。桑を育て、カイコを飼育し、繭から糸をつくり、ものづくりにつながる。
遺伝子組換え技術などを用いて、「未来のものづくり」を担うものだと思う。
館内見学の様子1
館内見学の様子2
蛍光絹糸の繰糸
集合写真
高林館長のお話の後、館長自ら館内を案内してくださいました。製糸の歴史が紹介されているブースの壁に描かれた、工女さんがたくさんいたときの岡谷の様子や様々な繰糸機など、参加者のみなさんが興味深く見て回りました。高林館長のお話に出た絹無音歯車も展示されており、実物を見た参加者は驚いていました。糸繰りの体験もさせていただき、楽しかったのと同時に、宮坂製糸所の職人さんたちの座繰りでの繰糸作業がいかにプロのお仕事か、ということを実感しました。また、特殊な方法で繭を処理する遺伝子組換えの蛍光生糸を繰る様子も見ることができました。
今回、くらしとバイオが企画したバス見学会では一番遠くまで出かけ、一番長い時間の見学会でした。しかし、志村さんのお話や高林館長のお話、蚕糸博物館の見学など科学、産業、文学が一体となった、とても充実した、内容の濃い見学会になりました。