2015年3月23日、茅場町サン茶房でバイオカフェが開催され、大日本住友製薬 オンコロジー臨床開発部 吉川麗月さん(がん治療認定医機構認定医)から「抗がん剤の今までとこれから」というお話をうかがいました。初めに、水野美香さん(クラリネット)と松崎みをさん(ヴァイオリン)により春にちなんだ曲が演奏されました。
音楽演奏 | 吉川麗月さんのお話 |
がんと遺伝子の関係
ヒトの細胞は約60兆あります。そのどこかの遺伝子に発がん性物質が働くと遺伝子に傷がつき、加齢や発がん性物質の暴露が大きいと傷が蓄積して遺伝子変異ができて、それが増殖してがんになると考えられています。
80年の人生の間に、少ない人で30秒に1回、多い人では3秒に1回遺伝子に傷がつきます。男性・女性でがんになる割合をみると、共に65歳くらいから指数関数的にがんになる割合が増えてきます。つまりその年齢まで生きると発がん性物質にあう割合も多くなり、その結果遺伝子に傷がつきやすく、また加齢によりその傷を治す力が弱まることを意味し、そのため65歳はがん年齢と呼ばれます。
更に、がんの中には遺伝性のがんも存在し、遺伝性がんはがん全体の中で数%認められます。このようにがんの本質は遺伝子異常の蓄積にあると考えられ、高齢社会が進むにつれてがん患者が増えるということにつがなります。
がん治療の歴史
抗がん剤治療は第二次世界大戦中の化学兵器マスタードガスの開発がきっかけで始まりました。マスタードガス(イペリット)を積んでいた連合国側の米国輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」が1943年にドイツの攻撃を受けてイタリアの港で沈没しました。その際イペリットの障害により被害は617人に及び、83人が亡くなりました。被害後2-3日で亡くなった方たちはイペリットによる直接の障害によるもので、7-8日後に亡くなった方たちは生体防御を行うべき白血球が減り免疫力がおちたことによる感染症によるものと考えられました。
この報告を受けた米国陸軍のギルマンと彼のエール大学の同僚グッドマンはマスタードガスが引き起こす障害は、細胞分裂が抑えられたことによるものです。この働きが放射線の作用と似ているため、これをがん治療に利用することを思いつきました。当時、白血病やリンパ腫の治療には放射線が使われていましたが、固形がんは手術で切除するより他に治療法がありませんでした。彼らは自説を確かめるため、がんを植えたラットを使って実験を始めました。ラットにイペリットを改良したナイトロジェンマスタードを静脈注射で投与すると、何も処置をしなければ3週間程で死ぬところが、がんが縮小して12週間も長生きしました。この結果から、固形がんの治療にも使えそうだということで、手術も放射線も使えない固形がん患者に対して1946年世界初の抗がん剤治療が行われました。その結果、数週間続く腫瘍縮小効果が確認され、この後、抗がん剤治療が発展して行きます。
マスタードガスに代表されるアルキル化剤という種類の抗がん剤はその後、東北帝国大学 吉田富三先生や東京帝国大学 石館守三先生の尽力によって発展しました。両先生はマスタードガスのイオウを窒素に置き換えることで副作用を軽減させ、初の国産抗がん剤「ナイトロミン」を世に送り出しました。
化学療法薬と分類されるいわゆる従来の抗がん剤は、がん細胞だけを狙う訳ではなく細胞増殖の速い細胞の分裂を抑えるしくみなので、増殖が速い骨髄、毛根、消化管粘膜、皮膚などに増殖が抑えられたことによる副作用がでます。このように、従来の抗がん剤は細胞毒性が強いのです。最近になってがん細胞に特異的な分子を狙い撃ちするような「分子標的薬」や「ホルモン薬」がでてきて、これらは比較的細胞毒性が弱いものになっています。ただし、抗がん剤は基本的には毒なので、医師は効果と副作用のバランスを判断して投与を考えています。がん細胞を強くたたくとがんは制御できるかもしれませんが、その副作用で先に人の命の方がもちません。
がんはどうして怖いのか? 患者さんは何に絶望するのか?
がんは転移・再発するためやっかいです。転移には血流を介する「血行性転移」、リンパ節を介する転移、腹膜や胸膜にがん細胞が散らばっていく「播種性転移」があります。転移が広がるとがん性悪液質となり、どんどん体がやせていきます。ここまで来ると患者さんは「もうできる治療はありません」「自宅で有意義に暮らしてください」と主治医に言われます。中にはドクターショッピングを始め全国行脚でお医者さんを訪ね歩く患者さんもいて、大切な時間を無為に過ごしてしまう方も少なからずいらっしゃるのはとても残念です。
なぜ抗がん剤治療がうまくいないのか?
がん細胞は109個になるとCTなどの画像で判断できるようになり、1012個まで増えると宿主のヒトは死んでしまいます。
現在使われている抗がん剤には切れ味のよいものと悪いものがあり、腫瘍を小さくできる切れ味のよい抗がん剤が長生きに貢献すると考えられがちですが、現実はそうでもありません。腫瘍縮小効果の強い切れ味がよい薬の治療では、生き残ったがんの再増殖のスピードが治療前に比べてうんと早くなることが知られているのです。
正常な幹細胞(親玉細胞)が分化・成熟して正常組織細胞(子分細胞)をつくり出すように、がんにも親玉細胞と子分細胞があります。つまり転移や再発は、治療しても、治療が効かない(治療抵抗性)がんの親玉細胞が残っているために起こると考えられています。これまでの治療では主に、がんの子分細胞ばかりたたいていましたが、最近では次のような新しいカテゴリーなどでも新薬開発が進んでいます。
○エピジェネティクス療法:
分化を促すことによってがんをたちの悪くないものに変化させる治療。
○がん幹細胞を標的とした治療:
たちの悪い親玉細胞(がん幹細胞)をやっつけ、がんの治療抵抗性・転移・再発を制御する。
○免疫療法:
免疫とは人体に異物が入るとそれを排除する働きですが、多くのがんではこの働きにブレーキがかかっていることがわかってきました(腫瘍免疫回避機構)。これまでのがん免疫療法薬は免疫のアクセルを活性化する薬ばかりでしたが、最近、免疫にかかったブレーキを解除する免疫チェックポイント阻害剤が開発上市されてきています。メラノーマ(皮膚がん)は5年生存率10%程度という非常にたちの悪いがんですが、昨年日米で上市された薬の臨床試験では、3-4ヶ月の治療で数年腫瘍縮小効果が持続することが示されました。
このように、わたし達は今まさにがん治療の大転換期の真っ只中にいます。
抗がん剤治療にあなたはいくら払いますか?
大腸がんの抗がん剤治療費は30年前には半年間で96ドル(11,300円)でしたが、この30年で543倍の52,131ドル(615万円)にまで跳ね上がっています。外科手術のできない大腸がん患者を例にとれば2年の延命に2,000万円の薬代がかかる計算です。
日本は世界でも珍しい国民皆保険制度をとっています。わたし達は普段その恩恵を実感していませんが、米国では自己破産の一番の理由は病院の治療費が払えないことによるものです。日本では治療費が国の健康保険でカヴァーしてもらえるので1ヶ月の自己負担は5万円程度が限度ですが、このまま高い薬が増え続けると現在の医療保険制度は破綻してしまいます。今はまさに、自分自身のみならず家族、国全体に対して真摯に医療体制を考えないといけない転換期でもある訳です。
一方、早期に緩和医療が行われた患者は、QOL(生活の質)が高く、欝や不安症状の訴えが少なく、標準ケアを受けた人よりも延命できたという報告がなされています。講師はホスピスのある病院に勤めていた経歴をもち、そこではチャプレン(牧師)が24時間体制で患者さんの訴えに対応されており、患者さんの多くは心の平安を感じてお亡くなりになるようにお見うけしました。昨今、キリスト教から生まれたホスピスのみならず仏教のホスピス病棟「ビハーラ」など終末期医療のオプションも増えてきています。
がん治療には体力と経済力が必要です。治療を人任せにせず、お陰様で生かされている命を大切にしましょう。
- 大学病院にも緩和ケア病棟ができ、何も手立てがない患者さんに緩和ケアを紹介してくれたり、家族を配慮してくれたり、進んできていると思います → 仰るとおりです。終末期の患者を診るために、大学病院をやめて開業し往診中心の医者になった知人もいます。大学病院にも地域ネットワークが広がり治療オプションが増えてきています。
- 緩和ケアはホスピスとビハーラだけですか → 痛みをとることが大事。緩和ケアは全人的なものです。
- 胃がん患者は数が多く、ステージが分かれていて、内視鏡で除去できることもあるといいますが、抗がん剤はどんな時に使うのですか → がん治療では大規模試験でエビデンスのあるレジメが、適応のある患者さんに対して標準治療として使われます。メラノーマでは選択肢は限られますが、胃がんについていえば、日本では比較的予後がよく4次治療まで行うこともあります。
- 特定の薬に効きそうな患者を選んで使えば安上がりになるのでは → そういう患者を見つけるバイオマーカー(どんな遺伝子が発現していたらその薬が効くか効かないかがわかる目印)があれば非常に有用ですが、実際にはバイオマーカー探しも難しいです。
- がんの第一選択肢は手術ですか → 手術でとれる固形がんなら手術が第一選択になる。胃がんの早期がんでは内視鏡切除が一般的に行われ、この内視鏡技術は日本発でレベルも高いです。手術の必要な胃がんの予後でみると、日本は欧米より5年生存率が30%程高いです。
- 両生類にはがんがないそうですが → そういうメカニズムがわかれば興味深いと思います。
- がん細胞には分化型と未分化型があると聞きました → 分化型は一般に予後がよく、がん細胞が集って悪さをするので切除すれば治りやすいです。未分化型は一つ一つが一匹狼で動くので、腹膜転移・胸膜転移などの播種性転移を起こしやすいです。これらは抗がん剤が効かず、手術でもとりにくいものです。
- 膵臓がんが血液診断で見つかりやりやすくなったといいますが → 診断方法はいろいろあるが決定的なものではありません。一般の人がアクセスしやすく安価にして検査をマスのレベルで普及させることが大事。
- 尿のにおいに線虫が反応してがんの早期発見につながると最近のニュースについて → 興味深い発表です。先の答えと同じく検査結果の質を担保してマスで行えるようにすることが大事だと考えます。
- がんの3分の1は生活習慣によって起こるが、3分の2は幹体細胞の分裂の不運でうまくいかないときに起こるから生活習慣のせいではないという論文を読みました → がん患者さんには、病気分類であまり進んでいないステージ1なのに突然亡くなる方、進行したステージ4でも長期生存される方もあり、何が予後の決め手になのかわからないことがあります。がん幹細胞は正常幹細胞より生まれることが示唆されており、お読みの論文内容はがん幹細胞の性質から逸脱しておらず、がん幹細胞を標的とする治療の効果が期待されます。