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TTCバイオカフェ「研究開発から学んだこと」

 2014年11月28日、東京テクニカルカレッジ(TTC)でバイオカフェを開きました。お話は株式会社日立製作所 フェロー 神原秀記さんによる「研究開発から学んだこと〜質量分析、DNA解析、1細胞解析技術開発など」でした。はじめに荒井友美さんによるバイオリン演奏がありました。いろいろな世界の作曲家風にアレンジした「Happy Birthday to You」が演奏され、盛り上がりました。

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荒井友美さんの演奏 神原秀紀フェローのお話

お話の主な内容

炭酸ガスレーザーの開発
東北大学で始まった炭酸ガスレーザーに卒業研究で取り組む。友達とできるかどうか賭けをした。12月29日22時ごろに光が出て遂に完成!翌朝、先生とお祝いに行くはずがドアに指を挟んで病院に行くことになってしまった。春の学会に初めて参加することになったが、とても12分の発表時間を持たせることはできないと思い、ポータブル炭酸ガスレーザーをつくって実演した。かざした紙が一瞬にして燃え上がるほどの大成功で、とても評価された。
 
電子線による構造解析
大学院時代、低速電子線を出す装置をつくることにした。予算はなく、値切って材料をそろえ、大学の車で鉄板を自分で運んだ。高等専門学校に持ち込んで旋盤で加工した。当時は、研究がうまくいかなくなったら、旋盤工で食べていけると思うくらい上手になった。
 
日立製作所へ
大学時代は資金がなくて苦労したので、お金がある民間がいいと思い、就職した。
このごろ感じることに、「研究も事業も似ていると思う。研究は新しいものの発見に喜びを感じる。事業は新しいものをつくり出し、かつ社会に役立ったときに喜びを感じる」
日立に入って一年間は豊かだったが、翌年のニクソンショックで為替交換比率が変動相場制になり、石油危機が追い打ちをかけた。古い装置の手直しをして使っていた。大学を振り返ると私のつくった装置でデータを出し、科学研究費をとって豊かにやっている。今のような状況ではここにいても先行きが心配なので外に出ようかと思ったが、自分にアピールするものがないとどこも受け入れてくれない。そこで、「外部から評価される人間になる必要がある」と思った。研究分野で勝負するならそれには論文と特許が必要だが、私は大学時代に論文をあまり書いていなかった。「自分の財産になる論文と特許をだしていこう!」と思った。
 
大気圧イオン化質量分析装置
通常の質量分析計は気体状態の試料を真空中に引き込み、それに電子を当ててイオン化し、イオンの質量を測る。ここで開発した装置は真空中でなく大気圧下でイオンを作り、それを真空中に引き込んで質量を測る装置である。まず、放電すると空気中の主成分である窒素と酸素がイオンになる、それらは周りのイオンになってない窒素や酸素と衝突してそれらを取り込みクラスターイオンができる。たとえば、水のイオンができると、それに水分子がいくつもついたクラスターイオンができる。ガス中にイオン化されやすいものがあるとそれらに電荷が移るため10の6乗倍くらいの効率でイオンになる。このために微量な成分でも信号強度が上がり十分検出できるようになる。公害分析装置として優れた特徴と持つので事業部に製品化を提案したが、日立では、すでにガス分析機器を製造しているという理由から事業化されなかった。事業化されなければ民間企業で研究を続ける意味がないので「この研究開発をやめたい」と上長に言ったが、上司はやめても良いが仕事に「けりをつけろ」といった。それは論文か製品にせよという意味だったので、苦手だったが、苦労して論文を書いた。
今の産業技術総合研究所 (産総研:AIST)から論文を見たと電話がきて、研究所製品として装置を同研究所に納めることになった。立派な装置ができたから他の人にも見せたいと思い、日立技術展に出展することにして、データもとった。これが「科学朝日」で大きい記事になって紹介された。「けりをつけること。努力することは大事なことだと」思った。
 
質量分析用脱イオン化技術
せっかく研究成果が注目され始めたと喜んでいたら、別な課題解決を要請された。10ミクロンのタングステン線上にカーボンマイクロニードルを気相成長させる課題である。マイクロニードルの先端に電圧をかけるとニードルの先端に非常に強い電界が生じ、先端近傍に塗布された不揮発性の生体関連試料がイオン化される(電界脱離イオン化;Field Desorption)。そのイオンを質量分析計で測定する。大気圧イオン化が注目され始めたときであり、あまり気が進まなかったが作製して技術を完成させた。後日アメリカで1年研究をする機会があったが、そこでもFDを行おうとしていた。行った先は全米の共同利用施設になっており、様々な依頼試料がきた。工夫して測定すると他の施設で測定できない試料も含めて殆ど分子イオンを測定できた。それを見て施設のリーダーが「おまえはマジックハンドを持っている」と言って、研究者仲間に紹介してくれたのでこの分野で名前が知られるきっかけとなった。FDは分子イオンを観察し、その物質の分子量を知るのに使われていたが、分子の構造情報は得られなかった。そこで、分子イオンを加速してHeガスに衝突させ、分解して分解産物の観測から分子構造情報を得る新たな方法(FD/CID; Collision Induced Dissociation)の開発を行った。アメリカ質量分析学会で成果を発表すると新しい方法なので、その日のベスト発表と多くの人から賞賛された。翌日、同じ研究室の人がDNAにベンゾピレンの付いた試料のFD/CID結果を報告した。データはあまりきれいでなかったが、測定対象が多くの人の興味をそそるものであったため前日をはるかに上回る高評価を得た。「分析技術は何をターゲットに選ぶかが重要で、使う人がほしい情報が得られることが大事!」と感じた。
このような経験を通して、気の進まないことも一生懸命になればその経験は生きる事を学んだ。また、多くの失敗を含む経験をしてきたが、一生懸命にやっていれば、それは潜在意識に残っていて別の機会にその経験が役立つことがある事も学んだ。一生懸命しなかった経験は潜在意識に残らないのであとで役に立つことはない。
 
生命科学の時代へ
当時、日本の質量分析学会はいろんなサンプルを分析したという報告が多く、あまり興味は持てなかった。そんな折に前述したようにアメリカに1年滞在する機会を得た。アメリカではアポロ計画の予算を生命科学分野に回す大きな方針転換がなされ、多くの異分野の研究者が生命科学分野に参入してきた。質量分析分野も例外ではなかった。生命科学を対象とした質量分析の黎明期が始まった。この分野は発展すると感じて、帰国後この関連の技術開発を志した。試みた技術開発の一つがマトリックス補助SIMS(Secondary Ion Mass Spectrometry)であった。SIMSでは固体表面に高速イオンをあてるが、これにより固体を構成している原子がはじきとばされる。一部がイオンになるのでそれを測定する。このときに、表面に有機物が付着しているとそれが観測され、元素分析の障害となっていた。西ドイツの研究者はそれを逆手にとり、表面にアミノ酸を塗布して測定してアミノ酸の分子量が測定できたと報告した。これはもっと複雑な生体関連物質のイオン化に活用できるかもしれない。できるだけ、衝撃エネルギーを表面近傍に集中させ、生体関連物質と表面との接着力を弱めたり、飛び出した生体関連物質の持つ余剰エネルギーを周りの分子に与えて取り除いたりすればうまくいくと考えいろいろ工夫した。最終的に、試料をグリセロールに混ぜて塗布することで様々な試料の分子イオン測定を実現した。
 
アメリカからの招待状
このような測定を行い、いろいろな物質のイオン化ができることを確認して喜んでいると、1980年9月ころアメリカから「来年(1981年9月)開催される国際会議(アシロマコンファレンス)への招待する」との手紙が来た。喜んで測定をしていると、1981年2月頃に新たな情報が入ってきた。イギリスで高速原子を固体表面に照射し(FAB; Fast Atom Bombardment)、表面に塗布された生体関連物質を測定する新たな方法が開発され話題を呼んでいるという。聞いてみると自分の方法とイオンと高速原子の違いはあるものの良く似ている。6ヶ月後の国際会議までにはこの方法は周知の技術になっているだろう。イオンと高速原子の違いはあるが、それだけでは話題性がないので、行くのをやめようかと迷っていた。しかし、もう少しFABの実態を調べる必要があると考え、イギリスの会議に参加した人に詳細を聞いた。するとFABでは生化学の試料を大量に使っていることがわかった。生化学の試料は、抽出、精製が大変でとても貴重。FABで使用する100分の1の試料量で測定すればインパクトがあるだろうと思い努力した。その結果を持ってアシロマー会議に臨んだが、努力の甲斐あって「おまえの発表が一番よかった」といわれ、質量分析分野で名前が知られるようになった。マトリックスを用いる技術はイオンでなくレーザー照射で試料を脱離させイオン化させる技術にも7年後に活用された。それを用いてたんぱく質の測定をした田中耕一さんが質量分析で2002年ノーベル賞をもらうようになる。
「講演には光るものをひとつ入れよう!それは次の発展につながる」
 
なぜDNAをはじめたか
質量分析を更に発展させようと増員と研究費をお願いしたが、「質量分析研究は昭和17年からあった。新しい事をせよ」と言われた。1970年代終わりになると石油ショックから回復してきつつあったがこれからは新たな技術を開発し、世界をリードするのだという機運が研究所に満ち始めていた時期である。このために、新しい技術開発をやれ!といわれた。そこで、他の人がやっていなくて、今後、発展する分野は何かを考えた。
そのころ、遺伝子操作でタンパク質を人工的に合成する事が注目され始めていた。自分はタンパクを合成するには適さないだろうが、そこで必要になるであろう遺伝子解析技術、タンパク質解析装置の開発なら自分の領域だ。それをやろうと思った。しかし、DNAもタンパク質も何も知らない。本当にその道をめざすべきか不安だった。人間は、困難に直面すると自分に都合のいい理屈をつけて自分を納得させ逃げていく性質がある。自分もそうなるかもしれない。それを回避するため何があっても、10年は続けよう!と心に決め、これが自分のライフワークだと自分自身に言い聞かせた。
 
ヒトゲノム解析の歴史
1953年、DNAの二重らせん構造が発見された。20年後に塩基配列が読めるようになった。和田先生は解読の機械化を提案し、1981年に和田プロジェクトが始まる。プロジェクトが終了したころ1987-8年に世界数か所でDNAシーケンサーができた。これらの実用化が刺激となり1990年、国際的なヒトゲノムプロジェクトがスタートした。1982年DNAシーケンサー開発をスタートしたが、三菱化成生命科学研究所に勉強に行ったり、1984年から和田先生のグループに加えてもらったりして平板ゲルを用いた日立蛍光式DNAシーケンサーを開発した。その後、ヒトゲノム解析計画を睨んでキャピラリーアレーDNAシーケンサーを開発した。これらキャピラリーアレーDNAシーケンサーはヒトゲノム解読に使用され、そのほとんどを読むのに使用されたといわれている。2003年にヒトゲノム計画は完了した。
いよいよゲノム情報を食糧、医療に活用する時代になった。世界の遺伝子関連分野はますます活気づいてきた。ニーズに合わせて様々な装置が必要になってくる。一方で生命をシステムとしてとらえる動きも活発になってきた。
しかし、日本の状況はというと、「ゲノム敗北」(岸宣仁 著)という本が出され、「日本はゲノム解析競争で負けた」といわれた。「負けた分野に予算をつける必要はない」「原因は日立の技術を外国に使わせたせいだ」・・・等の声が聞こえてきた。こんなわけで私もショボンとしていた。
そんなときに、アメリカから電話があった。サイエンス誌にゲノム計画に寄与した人の特集が出たが、アジアからは私ひとりだけが取り上げられた。そこでビジネスウィークのStars of Asiaの一人に選ばれた。これがきっかけで日立の技術は日本として誇るべきだというように風向きが変わっていった。私の場合には地獄から天国だが、いつ何時世間の風は天国から地獄に風向きが変わらないとも限らない。重要なことは世間の風評に右往左往するのでなく自分の信念で行動することだと学んだ。
 
新しい仲間と新しいテーマとの出会い
2000年、55歳になると会社ではグループリーダーは世代交代する。研究員がいなくなってしまった。中国で募集した数名のポスドクと研究を続け、手のひらサイズの小型DNAシーケンサーをつくった。世の中の変化は速い。この間にNIHはゲノム解析の高速化、低価格化を目指して1000ドルゲノムプロジェクトを始めた。研究費を求めて、多くの研究者が参入。キャピラリーシーケンサーの3桁上の分析能力を持ったDNAシーケンサーが開発され実用になってきている。DNA分野は発展しつつあり学術面・産業面ともに面白く、多くの人が参入し、予算もつく。ということは予算と人員が多いところが自然に強くなる。私にはそれらがない。技術開発競争は勝てないと意味はない!どうするか悩んだ。DNAシーケンサーを続けるか?新しい分野で出直すか?
今の状況ではDNAシーケンサー開発では勝ち目はないと思った。重要なのは自分の勝ちパターンを知ることだ。私の勝ちパターンは人より早く発展しそうな分野を見つけ、全力投球することだ。そこで新たな発展しそうな分野はどこか考えた。これには歴史を眺めてみるのが良い。昔、生物学は形態で分類し理解していた。次に分子をベースに生物をみる方法に変わり、大いに発展した。そして大量解析時代が来てゲノム、タンパク質、代謝物の大量解析が進行している。最初は大量データで生命のほとんどが分かるといわれていたが、実際には解らないことも沢山出てきた。生命はシステムなので遺伝子やたんぱく質といった単なる部品を沢山調べるのではなく生命をシステムとして理解しないといけないという流れが出てきた。それならば、生命システムの基本単位である個々の細胞を定量的にとらえる必要があるのではないか。これから必要なのは、ひとつの細胞を解析する技術ではないか!昔、松原先生に「隣り合ったあった細胞は同じですか」と質問をしたら、「分析した人がいないからわからない」といわれたことを思い出した。「1細胞をみることは面白い!」と思った。まず、1細胞の中身を定量的に分析する。分析に用いた細胞は死んでしまうのでその後細胞がどういう行動を取ろうとしていたかはわからない。そこで次は細胞を殺さずに分析する手法を考える。もし細胞を傷つけないようにして1細胞を見ることができたら、生命分野の大きな発展に、テーラーメード医療につながるかもしれない。
 
1細胞を見つめる
1細胞遺伝子発現解析をしよう!まず、細胞の状態と関連しているといわれているメッセンジャーRNAの種類とコピー数がわかるようにしよう。最初は浮遊細胞が対象だが、いずれ組織の中の細胞を1細胞でみられるようにしよう。
技術開発をスタートして数年たつと世界も変化し始めてきた。2011年にNIHは1細胞解析プロジェクトをスタートした。時代は変わってきた。数年前、1細胞計測は無意味だと多くの人に言われたが、今は1細胞のライフサイエンスがブレークスルーになると多くの人が考え始めている。
「自分ですることは自分で将来の発展をイメージして進めるのが重要。世の中の人の言葉に流されていると人の後ばかりを歩いていることになる。自分でテーマを決めたら、それに集中していくのが大事」
1細胞解析の応用としていろいろなことが考えられる。知り合いのJian Hanは免疫細胞には現在の健康状態や過去の病歴の情報があるからそれらは健康管理に役に立つし、免疫細胞の免疫応答を担っている可変領域を分析したら、創薬に役立つのではないかと考え技術開発をスタートしている。抗体を取ってくることはたんぱく質を用いて行うと大変な苦労があるが、免疫細胞の可変領域の遺伝子配列を調べることは比較的容易であるから刺激に対して応答した免疫細胞の可変領域の配列解析をしてたんぱく質に焼き直す方が効率が良い。
細胞を殺さずに分析する技術も進歩しつつある。アリゾナのAlan Nelsonは1細胞CTスキャンを開発している。細胞をキャピラリー中に流し、途中で光を照射して写真を500枚くらい取り、計算機を用いて3次元像に直す。詳細な画像が得られ、細胞の形とパーツの配置で病気の発症の有無がわかってきている。
将来行き着くところはグーグルアースの生命版のようなものだろう。グーグルアースでは世界地図から、興味を持った場所をクリックするとそこが拡大され、航空写真などの情報も得られる。それと同じように、3次元の生体像がまず表示され、興味を持つところをクリックするとそこが拡大され、更にその組織はどのような細胞群からなっているのか、そこではどんな遺伝子が働いているのかなどの情報が表示される。刺激を与えると細胞群がどのように反応するかがシミュレーションできる。これら情報システムは病気診断システムともドッキングしていくだろう。たとえば、患者さんの病変の三次元画像をとると、データベースの画像と見比べてそこではどんな遺伝子が働いていて、どのような処置をすると全体がどうなるかをシミュレーションできる。それらをもとに治療法などの最適化がおこなわれる。
人生にはいろいろなことがある。しかし、何事も精いっぱい努力しているとものごとは思わぬ方向にひろがっていくと感じる。
 
海外とのつながり
グループ解散で一人になった時、来てくれた中国のポスドクがよくやってくれた。彼が中国に帰った時、彼をサポートしてあげたいと思った。当時中国では国際会議はあまり開かれていなかったので、中国で国際会議を開くことで恩返しをした。2002年から最初の5年は毎年、以後は2年おきに会議を開催している。
チェコの研究者が来て、中国での会議に参加し、チェコでも国際会議をして欲しいと言い出した。そこで、2005年、チェコで国際会議を開催。また、スウエーデンのウプサラでは2006年世界で最初の「1細胞解析国際会議」を開催した。以後、毎年1細胞国際会議は開催している。
現在いろいろな国際会議などを主催しているが、このきっかけは世代交代でひとりぼっちになったことである!
 
まとめ
けりをつけてまとめていくこと。論文や講演には光るものを一つ入れる。世界一をめざす。
チャンスを生かす。一生懸命にすること。成功するまでやめない。
 
最後に〜チャンスをつかむための能力開発
将来予測の訓練をすること。失敗したら、いろんな角度でものごとみてフィードバックする。研究計画と実行日記を比べ、ふりかえるために、1週間単位で日記を書いた。その結果、時間の使い方が下手だとわかったので、まとまった時間がないとできないことと、コマ切れの時間でできることを分けて仕事をしたら、段取りがよくなり、効率がよくなり、チャンスをつかむのがうまくなった。
成功した人に様子をよく聞いて、自分にあてはめてシミュレーションもするようにした。
とにかく行動する、行動しながら考える。
うまくいかないときには、理由を考える。基本的にだめなときと、技術がダメな時を区別する。
他の人のまねをしなくても、世の中には大きな研究の種はある。成功したときに喜ぶなとはいわないが、成功したら、すぐに次の手を考えよう。
研究成果はなるべく発表して、次に向かう。他の人がしていないことに早く手をつける。
「苦しいときは、「元気です」と口にせよ!」という中村天風のことばがあるが、心の持ち方が一番大事だという私の考えと同じだと思った。
 
明日を担う人へ
未来には無限の可能性があるから、大きな夢を持つ!信念をもって行動していれば挫折はない。私も来年、新しい技術を事業化しようと思っている。


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会場風景 神原先生を囲んで

話し合い 
  • は参加者、 → はスピーカーの発言

    • 気が進まないことでも発展するといわれたけれど → 何が役に立つかはわからないから、チャンスを捨てないこと。やるんだったら精一杯やる。
    • 1細胞解析装置はこれからどんなふうに進みますか → Fluidigm社というタンパク質分析の会社が装置を売っている。トップ企業になってしまった。100個の細胞を解析する装置はある。病気の診断などの役立つようにするには、数千から1万個の白血球の分析が必要。
    • これは5年以内にできるようになるのではないか。これがあわさって、組織の分析に使えるのには3-5年くらいでではないか。細胞間の情報交換も分かってくるだろう
    • 出版社にいて病理学会の手伝いをしている。病気の判定は病理切片をみて、アナログ的な診断だと思うが、1細胞の情報を利用するのはデジタル的だと思う → 病理切片からの遺伝子発現がわかり、形態からでなくて病気がわかるだろう。
    • シーケンサーに関心があって今日は参加しました。起業について教えてください → ポスドク問題、高齢化する技術者、社会貢献したい高齢者の希望。高齢者に登録して働いてもらう。事業として成り立ったら大手に育ててもらう。ポスドクを雇う。1細胞解析サービスのための機器をつくり、事業化のしくみをつくりたい。日本の技術は高いと言われているが、事業化に失敗している。日本国内の事業化の動きは遅い。
    • 中国人の友人はベンチャーを設立し、売却し、アクティブに動いている。世界をかけまわってニーズを調べている。日本には事業と研究の両方を経験した人が少ない。
    • 今日のお話をうかがい、頑張ろうと思った。1細胞をみることの意義は → 1細胞を殺さずに生かしたまま観察したい。経時変化がみたい。これは東洋医学と西洋医学の関係と似ていると思う。東洋医学は観察で、西洋医学はある時点の細胞を殺して解析する。
    • 文系だが、「信念をもって行動せよ。行動すれば思わぬ発展がある」ということばに、たったひとりの分野で活動をしているので、勇気がわいた → 装置つくりに反対されたが、それがうまくいくと人は寄ってくる。状況は変わるもの。本当は自分との戦い。
    • DNAシーケンサの特許は日立が持っているが、ABIの製品として売られていた、世界では、神原先生はヒトゲノムプロジェクトのヒーローだと評価されている。日本には知財への理解は低いのではないか → 私自身はサイエンスに名前が載ることに、余り興味がない。ゲノム計画終了時にも、終了の感動よりも次に何をするかに関心があった。
    • 信頼している人が周りにおられ、ネットワークがあると思った → 松原先生との縁は強い。蛍光顕微鏡を借りたこともある。人のネットワークは意識しはないが、お世話になった人には、お返しをしたいと思う。


    ヒトゲノム解読のカギを手に入れろ〜神原秀記フェロー DNAシーケンサーへの挑戦〜
    https://www.youtube.com/watch?v=9EoCFfreClE