2010年11月19日(金)〜21日(日)、(独)科学技術振興機構主催により、国際研究交流大学村(東京・お台場)にて、サイエンスアゴラが開かれました。サイエンスアゴラは、「科学と社会つなぐ広場(アゴラ)」となることをめざして、一般市民から科学者・研究者まですべてのひとのための開かれた広場として始まりました。そこでは、大学、企業、NPOなど様々な人々が集い、科学を語り合う場として、シンポジウム、ワークショップ、サイエンス・ショー、展示、実験教室などが企画されます。
第5回目の今年は、入場者3040名、主催関係者1300名、150のプログラムが行われました。シンポジウムの最後には、ノーベル賞を受賞された根岸英一先生が成田からおいで下さり、若い人たちへの呼び掛けもありました。科学離れといわれながら、親子連れが多く見かけられる和やかな3日間でした。
「22世紀の予言 アイデア・コンクール」で入賞した小学生の作文をもとに、同学部の大学生が作ったアニメーションが上映されました。
最優秀賞は遺伝子を組換えて子犬ほどの大きさになったダンゴムシがゴミを食べる「ぼくのゴミへらし計画」。優秀賞は、髪をおしゃれな緑色に染めて光合成の栄養を体内に取り入れる「一石三鳥葉緑体」と、光合成の成分を含む液体のシャボン玉をまとって宇宙で活動する「えき体うちゅう服」でした。これらのアイディアをもとに、デザイン科の学生が中心になってアニメーションを作りました。「食べ物ロボット」は、食べたいものを記したメモをロボットの頭にいれると乾燥した材料がでてきて、それを水で戻してもう一度ロボットに入れるとカレーライスやオムライスが出てくるというもの。アニメーションに登場するロボットが行くところ、人々の笑顔、拍手、歓声がいっぱいでした。美しい調べにのせて、子どもたちのアイディアから創られた優しいアニメーションが上映され、大人も子ども、幸せな気持ちになれたイベントでした。
参考サイト:http://22dreamkids.jp/news.html
サイエンスアゴラの最後を飾るイベントとしてサイエンスアゴラ実行委員会主催シンポジウムが国際交流会館会議室で開かれました。合田隆史氏(文部科学省科学技術・学術政策局長)から開会の言葉の後、話題提供、パネルディスカッションが行われました。
話題提供「科学者維新塾:理系博士が日本を救う」川田聡氏(科学者維新塾塾長、大阪大学教授)
1838-1868年、緒方洪庵は緒方洪庵適塾(蘭学塾)に30人の若者を集めて勉強を始めた。自主的に志を持つ人が集まった。福沢諭吉もそのひとりで、適塾で学び、会社、メディアを立てて人を育てた(慶應義塾大学)。学問のススメは人の平等を謳っているだけでなく、人に差があるとしたらそれは学問の差で生じると唱えている。
博士号とは、①職業でなく資格、②研究者と同義でない、③広く学問に通じ(博学)日本や世界の役にたつ、すなわち、「独立自尊の人」となること。前例のないことをしたり、新しい説を唱えてたたかれたり、リスクを負う。しかし、科学者は勇気を持って自分の思うところを説け!博士とは研究者であることでなく創造し、破壊したりすることになる。すべての博士が科学者に成る必要はなく、軍需戦略家、政治家、企業家、経営者、芸術家、小説家、映画監督、サイエンスコミュニケーター、ジャーナリストなど色々な立場がある。
大阪大学中之島センターでは、年に10回科学者維新塾を開催。2011年1月から東京お茶の水で開催する。ポスドクを救うのでなく、理系博士が日本を救うのです!
パネルディスカッション「サイエンス、社会、そして人」
伊藤智義氏(千葉大学教授)、小川義和氏(国立科学博物館学習企画・調整課長)、川田聡氏(科学者維新塾塾長)、五島政一氏(国立教育政策研究所総括研究官)、元村有希子氏(毎日新聞東京本社科学環境部副部長)をパネリストに迎え、モデレーター美馬のゆり氏(公立はこだて未来大学教授)の進行で話し合いが行われました。
美馬:科学者と行政の対話、その対話への市民の参加が重要ということが、オープニングセッションで話し合われた。このセッションは人材育成に重点をおく。子どもの成長に係る、学校、メディアなどの方とこの話し合いをする。
伊藤:栄光なき天才たちという漫画を描いていた。「夢を持てることはひとつの才能であり、夢を追い続けることはひとつの勇気であると思う」
中学生のとき、世の中を動かしているのは科学者だと思い、科学者になりたいと思った。高校生のとき、作文をほめられ漫画原作者になった。大学で教育実習が面白かったので高校教師になろうと思った。大学院時代、漫画原作者で年収1400万、院時代に高校非常勤講師をし、卒業後、大学の助手で年収300万。今も1400万には届いていない。
小川:目標は自立した個人が豊かに生きられる社会の構築。科学リテラシーを持った人材を育てる(基礎的な知識の習得、感性の管用、論理的思考力)こと。育成すべき人材は専門的知識を持って知の創造を担う人、コミュニケーション能力が高く知社会還元を担う人。
コンセプト創造が重要で、そのコンセプトは「知産知承」(地域で知の堀り起こしと創造を進める)
五島:16年間、教員をしていた。身近な問題の解決を通じて科学に興味を持ってもらえるように、教材開発などを行った。教壇に立って5年経ったら独創的な教材作りをし、10年経ったら地域の自然を見るような教育が重要ではないかと思う。地域に関係した教材や資料が蓄積され、知事賞、文部科学大臣賞を取るに至り、町も元気になった。宮沢賢治のようなセンスを持つようにしたい
元村:理科が嫌いで文転したのに、科学を伝える仕事をしている。理系の首相が苦戦中だが、文理の協力が重要。2010年は理系記事が多く1面に載った。その理由は、理系には山崎宇宙飛行士、野口宇宙飛行士、はやぶさ、ノーベル賞などの明るい記事が多かったから。多様性は活気の源であるので、多様な文脈、多様な表現、多様な発信手段、多様な人材が活かされることが重要。
- トップの科学者を育てることだけでは不十分で、社会を支える専門の人材が重要である
- 学校だけでなく、科学館、家庭も科学のセンスを養うのには大事。科学館で教員が学ぶシステムをつくるべき。
- 科学館、学校、家庭で理系に関心がない人にも漫画は働きかけられる。編集長が理系出身だったりする。パイオニアは手塚治虫氏(大阪大学医学部卒業)。維新塾の講師は個人で生きている人で組織の立場でない人ばかり。すべてが研究者ではない。例えば世界的には科学・技術は国の軍事目的で開発されてきたものなので、理系の軍事戦略家は優れている。ドイツや中国の首相には理系の博士が多い。
- 理系の社会リテラシーを高めないと科学は身近にならない。排他的で社会が回らない。大企業が博士を取らないのは悪い事でなく、博士が中小企業を大きくしたりメディアを引っ張ってほしい。
- 日本は研究室が閉鎖的だが、世の中はオンリーワンだけがいいのでなく、オンリーツーもありえる。ポスドクにはもっと肩の力を抜いて生きてほしい。社会の役にたつ研究だけがいいのではないと思う。
- 社会の役に立たなくても意味があるとか、いい研究だという説明ができなくてはならないと思う。
- 専門を極めると視野は狭くなる。大変だが博識を高めるような意識も持ち続けてほしい。
- ポスドクの人は教員になって夢を語ってほしい。教員の年齢制限も緩くなってきた。教員をしながらドクターをとれる仕組みも必要。
- 教員、学芸員に「つなぐ力」を発揮してほしい。つなぐ力が地域の課題解決をしていく。地域の智があって、サイエンスコミュニケーションが自然発生するのがいい。サイエンスプロデューサー(サイエンスコミュニケーターより大きな視野で資金獲得ができたり、コーディネートできたりする)が必要。
まとめ
全員から「生まれたこどもが成人になったときの社会と科学の関係」についてコメント。
伊藤:知的好奇心のなくならない社会であってほしい。
小川:人は変わっていく。他人は変えられないが、自分は変われる。飢餓になれば食べるのだから危機感を持つのも大事。ラーニングソサエティ(自ら向上心を持って学んでいける社会)をめざす。
河田:文理の壁がなくなってきている。30年後に、カーボンナノチュ-ブは物理か化学か?生物、倫理かもしれない。未知の可能性がある。
五島:科学の番組を家族で楽しめるような一般家庭のママやパパが育っているように
元村:新橋の居酒屋で科学政策を批判しているような社会になってほしい。科学・技術に浸っているのに、気づいていないのが現在。メディアとしては活字を通して正確に良い面、悪い面、わからないことも伝える。読者がそれを判断できるように手伝いたい。
根岸英一先生のお話
成田からノーベル賞を受賞された根岸先生がサイエンスアゴラ会場に直行されました。
「ノーベル賞受賞者は世界に 700-800人いて、受賞の確率は10の7乗分の1という。今振り返ると、いろいろな節目で10倍のバーを超えて来たと思う。1960年ごろ、ノーベル賞の夢を見始めたが、それまでにやってきたことは自分に満足を与えていた(ノーベル賞をもらえば断らないが)。
私たちの生きる究極の目的はハピネス! 東大3年のとき、病気休学して色々なことを考えた。人生で大事なことは何か、①健康(個人主義)、②家庭(ヒューマニズム)、③民主主義(人道主義が大事だが、国として)、④仕事と趣味の4つ。これらの要素の充実を目指して頑張ることが大事。好きなことは何か、好きなことは自分にあっているかどうかを考えて、追い続けて下さい。そして英語はブロークンでよいので、どんどん使うこと。論文は英語で書くこと。
ノーベル賞を取る確率は、小学校で成績がよかったとき、中学で勉強したとき、フルブライト奨学金をもらうために英語の勉強をしたときと10分の1ずつ確率が高くなってきたと思う。ペンシルベニア大学大学院時代、めちゃくちゃに勉強して1番になった。月1回のテストを8回受ける。3年目、10人以上のノーベル学者がやってきて、そのひとりがパヂュー大学のブラウン先生(有機と無機を融合した分野)が来られ、きっかけになって、1966年 パデュー大学に行った。
私はパラジウムを触媒にした研究をしてきたが、元素の組み合わせは私の頭の中に無限に作れる夢のようなもの。皆さんも夢に向かって目標を立て進んでください。今日は、夢が順々に現実になると言いたいと思います」