「ビアトリクス・ポターの隠された生涯」
2010年1月18日(月)ブリティッシュ・カウンシル東京センターにて、サイエンスカフェが開かれました。お話はトム・ウェイクフォードさんによる「ビアトリクス・ポターの隠された生涯」でした。トムさんは英国ニューカッスル大学OERLリサーチセンターなどで活動され、生物学者、サイエンスコミュニケーターであると同時、1996年度英国若手科学作家に選られたライターでもあります。 そしてビアトリクス・ポター(1866-1943)は絵本「ピーターラビットのお話」の作者として余りにも有名ですが、実は彼女は優れた生態系に造詣の深い生物学者だったのです。
開会のあいさつをされるブリティッシュ・カウンシル東京センター のヒュー・オリファントさん |
トム・ウェイクフォードさん |
ビアトリクス・ポターはどんな人だったのか
ビクトリア時代(19世紀)、ロンドンの中級家庭に生まれた。両親とは余り関わりなく、子守とペットの犬と多くの時間をともにして少女時代を過ごした。自然史博物館によく通い、自然を描きたいという強い気持ちを持つようになった。先生はいなかったが、6歳くらいから注意深く観察して絵を描き、10歳の頃には、図鑑に載っているような植物画を描くことができるようになった。
39歳の作品に、毒キノコに座っているねずみの絵があるが、ビアトリクスはキノコなどの微生物分野が専門で、きのこ、菌類、微生物の研究に没頭していた。
彼女の考え方の特徴は、生物の生きるための条件、環境、森林の生態系を全体像として捉えていたこと。特定の分野を深く掘っていくような当時の学問の進め方に逆流する考え方で、女性であることも関係して、研究者としては認められなかった。
エブリン・フォックス・ケラー(ジェンダーの研究者)は女性研究者として、バーバラ・マクリントック(トランスポゾンという動く遺伝子を発見しノーベル賞を受賞)とポターを比較して、「マクリントックも微生物に親近感を持っていたが、彼女はミクロの方向で研究を進めた。これに対してポターはダーウィン式の研究姿勢を持っていたので、彼女への風当たりが強かったのではないか」と言っている。
ポターに影響を与えた人
ビアトリクスは3人の人から強い影響を受けた。
一人は、チャールズ・マキントッシュ。彼は、郵便配達をしながら自然を研究しており、ビアトリクスは自然の研究への視点を彼から教えられた。
二人目は、ヘンリー・ロスコーで、ビアトリクスの伯父で化学者。ビアトリクスに教え、彼女の研究を応援した。
3人目はジョン・ラスキン。博識が高く、芸術を鑑賞する能力が高く、建築学、哲学の研究もしていた。
ビアトリクスの活動
ビアトリクスはダンケルというところで、病気の友人を見舞う手紙を、情熱を持って書いている。手紙の中にウサギの挿絵が描かれており、この手紙の1年後に「ピーターラビットと仲間たち」という絵本が誕生した。
伯父のラスコーのお陰でビアトリクスは自由に研究することができた。シロキクラゲを発見し、彼女しかわからない暗号を使って日記にそれを記していた。この暗号はその後、17年間、解読できないくらい複雑なものだった。当時は、このようなことがあり、ダーウインも彼の考え方は危険なものであったので、秘密の日記に書いていた。
地衣類の発見・共生の概念の提唱
スコットランド湖水地方で観察を行い、「地衣類」を発見した。当時、地衣類は珍しい菌類の一種としてしか認められていなかった。彼女はLICHENSという言葉を考え出した。
地衣類はいろいろな色で幹をおおい、ぱりぱりしていて、苔と間違われるが、違う生物であると考えた。地衣類は何百種類もあり、染料、医薬品の原料などとして利用されてきたのに、人の目にとまらない生物だった。
彼女は顕微鏡を使って地衣類を観察し、その分類に関する仮説を作った。地衣類は藻類と菌類の間に存在している、すなわち「共生の概念」の提唱だった。シュウエンデナーという研究者と同じ考え方。当時の権威ある研究者は「共生」という考えを認めなかった。共生という考え方自身が、秩序ある社会の中で混乱を招きやすい考え方とみなされた。
生物は排他的に生きるもので、共生はありえないと考えられたので、共生を唱える人たちは、シュウエンデナリストと呼ばれて排斥された。
伯父に論文を見せたが、ダーウインと同じ科学院で発表しようとしても、女性だからという理由で認められなかった。やがてビアトリクスは有名になったが、公式に発表することは認められず、伯父がビアトリクスの地衣類の関する論文を代読した。しかし、学会の記録に残されることもなかった。
伯父はキューガーデンに意見をいう機会も作ってくれたが、彼女は科学の世界から身を引いてしまった。今は「ダーウインの後継者」とさえいわれるビアトリクスに対して、権威ある研究者たちが、研究の扉を閉ざしたといえる。
やがて、共生の概念が学会に認められ、地衣類が生物の教科書にのるようになったのは、20年後だった。
生物が初めて誕生し、古細菌(は核がない)は原生真核生物(核を持つ)になり、やがて真核生物が生まれ、植物動物が生まれる。動物は運動し、植物は光合成をする。
共生は葉緑体を持つ微生物を飲み込んだ生物が光合成をする植物になるという大きな進化である。リー・マーグリスがこれを述べたことで、ビアトリクスの名誉は回復されたといえる。
ビアトリクスの後半生
ビアトリクスは共生について述べる機会も奪われ、ロンドンを去り、レイク地方に移り住むようになった。そこにヒルトップファームをつくり、羊の繁殖の研究に没頭して晩年を暮らした。
イギリスのさまざまな地方の羊の繁殖の研究で賞を与えられ、農業の自然環境に与える関係についても意見を述べている。
学会に拒絶されて失意の後半生だったと考える人もいるが、実際には、絵本がよく売れて、裕福であり、広大な土地を購入し、ナショナルトラストをたちあげ、幸福な人生だったようだ。森林の菌類という本も出版している。
ビアトリクスの考え方のおよぼす影響
共生は進化の過程。ダーウインは顕微鏡がなかったが、ビアトリクスは顕微鏡で、共生を観察することができた。マルギルスが「共生」を発見したことになったが、共生はサステナビリティ(持続可能性)の鍵でもある。21世紀の科学にこそ、ビアトリクスの全体観のような「生命への感じ方」の再発見が必要ではないか。科学者は自然現象を切り刻んできたが、ビアトリクスは自然を全体像でとらえる視点を、農業従事者や郵便配達から学んだ。これは、専門家だけの意見でなく、いろいろな人と議論しないと、科学、経済、政治の問題は解決できないことをも示している。
新事実の発見は社会との関係にも影響を与えるもので、ビアトリクスは観察などの多くの証拠も集めたが、王立植物園は、女性だからという理由だけで彼女の研究と新しい考え方を受け入れられなかった。
ビアトリクスは、植物、動物、微生物などの小さい生き物をつなげて考え、実際につながっていることを示した。こういう考え方がもっと早くから存在していれば、現代の環境問題にも少し、役立てたかもしれない。
トムさんのお話の後、ビアトリクスの研究と生涯、トムさんのサイエンスコミュニケーションの研究についてなど、いろいろな質問がありました。
参加者にとって、新しい考えを女性が述べることに対して、学会がいかに立ちはだかったかということは驚きでした。そして、もしも彼女が男性だったら、自然科学はもっと速く発展したのではないか、狩猟に興じてしまい地道な研究はしなかったのではないかなど、楽しい話し合いが行われました。