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東京国際科学フェスティバル閉幕

2009年9月27日、三鷹市公会堂において東京国際科学フェスティバル(TISF)、クロージングイベントが開かれました(開催期間:9月12日(土)〜27日(日))。TISFでは、国立天文台、国際基督教大学、三鷹市、NPO法人ガリレオ工房、NPO法人くらしとバイオプラザ21をはじめとするメンバーに、市民のグループ、商店会などが加わって、サイエンスカフェ、実験教室、サイエンスショー、スタンプを集める太陽系ウォークなどを行いました。参加した団体の数は86、実施されたイベントの数は約130にのぼりました。
東京国際科学フェスティバル公式サイト


講演と実験ショー「科学を伝える」   イラン・チャバイ氏(物理化学) 
           スエーデン・ヨーテボリ大学社会一般の学習理解センター長

科学をすることは、私達と自然の関係を理解させ、人口問題、環境問題の中で、私達にどう考え、行動すべきかを考えさせてくれます。

ドライアイスを使った実験
「マイナス78度のドライアイスからは絶えず二酸化炭素が出ているんだよ。プラスチック箱の上をホッケーのように滑らかに移動して、水に入れると白い煙が出るよ。この白い煙は毎日見ている雲と同じ。けれど、油を入れたコップに入れると雲は生まれない、それは雲の正体が水の粒だから。
コップにシャボン玉の膜をつくって二酸化炭素の箱にいれると、シャボン玉がどんどん膨らんでいくよ。シャボン玉の膜は空気を通すけれど、二酸化炭素を通さないらしい。
シャンペンやビールのように、二酸化炭素は水に溶けるよ。だから、体の隅々でエネルギーを出すために酸素が燃えて二酸化炭素になっても、僕らの体は泡でいっぱいにならいよ。二酸化炭素を溶かして運ぶんだね。
身の回りのものを注意深く見てごらん、いろんなことを学べるよ。本や偉い先生に習うだけではないんだね。
私は、4歳の友達とも、時にはノーベル賞受賞者とも、こうやって実験を楽しんでいます」

チャバイ先生を紹介する北原実行委員長 「ドライアイスはプラスチックの箱の上をホッケーのように滑る」
「油にドライアイスを入れたら、どうなるだろう」 「私の息でふくらませたた風船と二酸化炭素を入れた風船、
どちらが重い?」
 
二酸化炭素の箱の中で膨らむシャボン玉の膜  



トークショー
「科学オリンピックの輪!  科学オリンピックに出場した私たちの今」

科学オリンピックに参加した経験を持つ大学生と指導された先生が、科学オリンピックについて語りあいました。共通して語られたのは、全日程のうち試験は一部で、国内の選手や外国の選手との交流が有意義で思い出深かったという声でした。

数学オリンピック
大橋裕太さん(東大教養学部2年)、伊藤雄治さん(数学オリンピック財団理事)
「1959年に東欧7カ国で始まり、2009年には第50回記念大会を迎えた。今年、日本は104か国中、中国に次ぐ2位。6人中5人が金メダル、特に副島君は満点。春休みや夏休みに過去のメダリストが指導し合宿をした成果が出たと思う」

化学オリンピック
永田利明さん(東大理学部3年)、米澤宣行さん(東京農工大 教授)
「化学オリンピックの代表に2回選ばれ、化学を志すようになった。実験と実技試験が5時間ずつ。10日のうち試験は2日。先生方は試験の準備等で忙しいが、私達は海外の選手と交流できよい思い出になった」
「オリンピックに関わり海外の教育に関心を持つようになった。そして、日本の科学教育の問題点を感じ、リテラシー向上が大事なのだと思った」

生物オリンピック
岩間亮さん(東大農学部3年)、奥田宏志さん(芝浦工大柏高校 教諭)
「2009年、第20回大会がつくばで行われ、日本は5回目の参加。実験の試験(90分)4回、理論の試験(150分)2回。5日のうち3日は観光などで、身振り手振りでも海外の選手と仲良くなれて楽しかった」
「国内の代表選手の連携が生まれ、やがては共同研究も始まると期待している」

物理学オリンピック
田中良樹さん(東大理学部3年)、北原和夫さん(国際基督教大 教授)
「世界で40回開催されているが、日本は3年前(2006年)から参加。個室で5時間の試験(理論と実験)を受ける。この経験が物理を専攻するきっかけになった。日本チームメンバーとは半年前から合宿などをし、今では仲間を増やしゼミもやっている。この仲間との出会い、海外の友人との交わりの意義はオリンピックそのものより大きい」
「先生たちにとっても、オリンピックでの交わりは意味が大きい」

情報オリンピック
秋葉拓哉さん(東大理学部3年)、谷聖一さん(日大 教授)
「情報の中の科学的な領域を論理的に扱い、作ったプログラムを競う。競技日以外の交流は、他のオリンピックと同じ。参加する前はプログラミング言語を使える自信があったが、それだけではダメだと知り、アルゴリズム(プログラムを作る前の考え方、手順)を学ぶきっかけになった。世の中には大学卒業後も参加できるプログラミングコンテストが度々行われている。海外の友人とは今もコンテストで繋がっていられて楽しい」

地学オリンピック
森里文哉さん(東大教養学部1年)、瀧上豊さん(関東学園大 教授)
「地学オリンピックは今年で3回目の若いオリンピック。地学オリンピックというと、岩石の研究ばかりと思われるかもしれないが、地球環境について考える側面が強い。筆記試験を解くだけでなく、実技試験(岩石の鑑定など)、野外調査(火山の溶岩まで歩いていき住民への影響を考察)もある。メダル獲得よりも、野外調査で協力の大切さや、言葉が通じなくても心が通じることを学べたことが大きい」
「地学は認知度が低い。地学オリンピックではメダル対象外で、各国一人ずつの選手によるチームが野外調査をし、プレゼンテーションを競って、ベストプレゼンテーション賞が与えられる特徴がある」

有馬朗人先生からのコメント
参加者は本当によく頑張った。指導された先生のご苦労に感謝したい。初めは学会の先生方が科学オリンピックを評価しないという残念なこともあった。その中での先生達の努力に感謝したい。
日本にはエリートを育てる考え方が弱く、平均学力を上げることを重視してきた。日本の知識型の学力は下がっていないが、考える力の低下が問題。アメリカはPISAなどでは日本より成績が低いが、オリンピックでは強い。米国は中国のようにオリンピック用の塾ができるほど加熱しているわけではないが、創造力を育てる教育ができているようだ。
実験、自然観察を重視した教育に日本は注力すべき。また、阪大、筑波大、東北大が科学オリンピック参加選手を優先的に入学させる制度を始めたが、もっとこれを広めるべき。

有馬先生と科学オリンピックに参加した人たち 科学オリンピックに参加した人たち


講演「ダーウインと生物の進化」
          長谷川真理子さん(人類学) 日本進化学会会長

ダーウィンは「進化のメカニズム」研究した。中でも、資料を大量に集め、自然淘汰・性淘汰の研究をした。現在は自然淘汰と偶然による中立進化が研究されている。

ダーウィンのおいたち
裕福な医者の家庭に育ち、働いたことがない。ダーウィンの父親は大柄で厳しい人、母親はウェッジウッド家から嫁ぎ、ダーウインが8歳のときに亡くなった。
学校時代は古典の勉強が嫌いで、すぐに家に帰ってきてしまうような劣等生だった。エディンバラ大学医学部に入るが、麻酔なしの手術の見学に耐えられず、医学の道から離れてしまう。このころ、ロバート・グラント先生(無神論者で急進的な進化論者)の影響を受け、海洋の生物の観察などを始めた。
ケンブリッジ大学クライシスカレッジに移り、牧師を目指す。よい家柄の子弟が牧師になる時代。暇で研究ができるだろうと牧師の道を選んだようだ。
ダーウィンは鳥うちと昆虫が好きな少年だった。鳥うちのための犬も飼っていた。ケンブリッジ大学の学生には、身の回りの世話をしてくれる執事がいる、ダーウィンは採集のアシスタントも雇い、父親に特注の標本箱を作ってもらって採集をしていた。
植物学のヘンズロー教授にいつもついて歩いて植物についても学んだ。アダム・セジウィック教授(氷河期を提唱した)からは地質学を学んだ。
ケンブリッジ大学卒業後、牧師にならずにビーグル号(世界の経線を測定して5年で世界を一周する仕事、1831年から1936年)に乗りたいといって父親の大反対をうけるが、ウェッジウッドの伯父がまたとない機会だと父親を説得してくれた。ダーウインはフィッツロイ艦長の話し相手兼大英帝国のための地質資源を見つける目利きの役目として、無給で乗船した。艦長とは、奴隷制度に関して考えがあわず、気まずくなる。ダーウィンが南米をロバに乗って探査したのは、艦長と一緒にいたくなかったからのようだ。

ダーウィンが語る自分の経験の中で大事だったこと

  • 南米のフェゴ島で野蛮人を見たこと(イギリスにはイギリスの生活に順応したフェゴ人が働いていたが、狩猟・採集をして裸で暮らす人を見たことは彼にはショックだった)
  • ナマケモノの化石を発見
  • 1835年、一夜で地形が変わるような地震を体験したこと(チリ)
  • ガラパゴス(南米)でマネシツグミに似た鳥を発見したこと
  • 熱帯の生物の多様性の素晴らしさに感激する
ダーウィンは初め地質学者として研究しており、ケンブリッジ大学セジウィック博物館には、ダーウィンの地質サンプルが展示されている。

結婚
ビーグル号以後、母方の従姉妹のエマと結婚。
ダーウインの研究を見ていると、彼は最後に無神論になるはずだが、エマは生涯、敬虔なクリスチャンだった。

フジツボの研究から進化論、そして人間への興味
化石のフジツボ、生きたフジツボの研究を全4巻にまとめた。進化論というとガラパゴス島の研究が根拠だとする人が多いが、実際はフジツボの丹念な研究がその土台になっていると思う。フジツボの本を出版した夜から進化の本を書き始めたことからも想像できる。世界最初の系統樹はダーウィンのノートに、メモとして残っており、これが「種の起源」の中のたった1枚の図となる。
「種の起源」の後、ダーウィンは「人間の由来」を著わす。彼の中には、初めから「人間」への関心が貫かれている。だから、フエゴ島人を見たときも、文明人と凄く違うが、本質は同じ、哲学も何もなくても人間だと直感的に考えている。

ダーウィンという人
・自然界全体に対する飽きなき好奇心
・絶対めげない(ずいぶん病気をしているのに研究をやめない)
・非常に論理的に考える(数学はだめだが、ことばの論理力が優れている)
・優れた先生に出会っている
・とことん突き詰める
・多くの学者との豊かなコミュニケーション(35,000通の手紙を書き、多くの学者と交流)
・本当に暖かいいい人(キリスト教を覆すような論理を唱えたが、悪口を言う人がいない)

性の淘汰
美しさと武器が雄にしかないのはなぜか。例えば、自然選択では、干ばつで大きい種を持つ植物だけになり、嘴が厚くなったと考えるが、美しい嘴はどう考えるのか。
性差はなぜあるのだろう。配偶子での性差は大きさの違いだけなのに。自然選択だけなら同種のオスとメスは、外界との関係では同じ適応(姿、振る舞いなど)をするはずだが、実際には、繁殖をめぐる競争においてオスとメスは異なっている。オスは戦ってメスを勝ち取り、メスは選ぶ。だから、オスは美しくなり選ばれようとする。

奴隷制への反対
ダーウィンはすべての人種が系統樹のようにひとつになるはずだと考えている。だから、人種の起源を自然淘汰で考えたくなかったのだろう。人種の起源には、単源論と多源論がある。
単源論:すべてアダムとイブから発生してきている。環境の影響で、南に住んで日焼けして黒くなるという考え方。
多源論:人には初めから種類がある。奴隷制を支持する理論。
ダーウィン家とウェッジウッド家はともに奴隷制度に反対だった。人類は一つだと言いたい情熱があった。しかし、人種の多様性は自然淘汰だと説明しにくい。
奴隷制度の廃止に科学的寄与をしたかった。生物はみな共通祖先から進化したが、性淘汰による変化が生まれた。黒が魅力的だと黒くなり、白が魅力的だと白くなる。生物学的意味がなくても、たまたま配偶者獲得競争の中の気まぐれで生まれる進化がある。
単源論では人種はひとつと考えるが、ダーウィンはヒトだけでなくすべての生物の源がひとつだと考えていた。


長谷川先生「世の中にはダーウィンおたくと呼ばれる
人がいて・・・」
縣秀彦さんから結びのことば
清原三鷹市長を囲んで〜TISFを支えてきた人たち


最後に国立天文台縣秀彦さんから、
TISF全体のまとめと参加した人、関係者に感謝のことばが述べられました。